中東を知る、ニッチに生きる

武蔵野美術大学

中東を知る、ニッチに生きる

PEOPLEこの人に取材しました!

玉木直季さん

英国王立国際問題研究所勤務(国際協力銀行より出向)

私たちの身の回りにあるエネルギーの多くは中東から来ている。例えば原油の9割以上をサウジアラビアやUAEをはじめとする中東諸国に依存している。日本が資源を確保し続けることができるようにするには、相手国の政府や国営企業と交渉を重ね信頼関係を構築することで、日本が資源を確保し続ける状況を作る必要がある。そのためには中東と日本の架け橋となる人物の存在が不可欠だ。中東を拠点に様々な国を移動し続けながら、国際協力銀行(JBIC)を通じて日本のエネルギー事情を支える玉木直季さんの人物像に迫りたい。

ニッチでトップに!

“鶏口となるも牛後となるなかれ”。大きなものの後ろにいるよりはニッチのトップを走る。ニッチの中で何か自分の存在感を出していくっていうことが好きなんです。例えばスノーボードをまだ誰もやっていなくて、スノーサーフィンと呼ばれてた頃にスノーボードを始めてみたり、日本で最初の高校生ラクロス部を学校に作ったり。

そういう性格だったので、アラビア語が日本ではマイナーな言語だということや、なにより大学の卒業旅行(19943月)でエジプトにピラミッドを観に行った時に感じた現地の空気が肌に合っていた、ということもあり、卒業後に就職した東京銀行(現、三菱UFJ銀行)の留学制度を利用してカイロ・アメリカン大学に留学しました(19979月〜19991月)。

それから現在までファイナンスを通じて、日本企業による現地でのインフラ開発をサポートしたり、日本のエネルギーが枯渇しないようエネルギーを買い続ける権利、つまり権益を何十年も守る仕事をしています。

卒業旅行で空気が合うと感じて住み始めたカイロだったけど、最初はやはり生活の立ち上げとか文化や生活に慣れたりするにはちょっと手こずりました。

ギザのピラミッドの夕暮れ

「ヤバーニ!」

カイロは騒音がすごく、空気も汚れている。そして人が溢れていて、街全体がカオス状態。ぱっと見ではなかなか暮らし難い街なんです。

街を歩いていると見ず知らずの大人たちが「ヤバーニ、ヤバーニ」って声をかけてくるんです。(アラビア語で日本人という意味)単に日本人が好きだからとか、日本人が珍しいからとか、もしくはお土産物を売りつけようとか、いろんな思惑が彼らにはあるんでしょう。もしくは何も考えていないのかも?とにかく「ヤバーニ」と声を掛けられるんです。

僕らは東京で、イギリス人を見て「イングリッシュ?」とかアメリカ人に「アメリカン?」って声を掛けない。だけどカイロだと、「ヤバーニ」。これがまあ鬱陶しくて。その後、ペルシャ湾に浮かぶ小さな島国のバーレーンという国に2年間暮らしたんですけど、当たり前ですけど、誰も声を掛けてこないんです。そうすると、なんだか急にカイロのわけわかんない大人たちが懐かしくなってくるんです。こんなふうにカイロを離れて海外に出たりするとほっとすると同時に、懐かしくなったりもする。離れるとわかる「良さ」をじんわり感じます。 「ナイル川の水を飲んだ者はまたエジプトに戻ってくる。」というエジプトの諺を、頭ではなく身体で理解した訳です。

 カイロには人の数だけ値段がある

他にも文化の差を感じることもありました。バザール商人の考え方なのか、物に決まった値段が無いっていうのが中東の文化なんです。

僕がいた頃のカイロはスーパーマーケットが少なく、食料はほとんど市場で買わなければいけなかったんです。市場でトマト買うときに「いくら?」って値段を聞くと、「you say how much』?」という意味のアラビア語で、向こうからこっちに値段を問うてくるんです。

いや、あなたが値段教えてくれないと買えないじゃんって思うんだけど、とにかくいくらで買いたいのかを聞かれる。最初のうちは「これくらいかなぁ」ってめちゃめちゃ安い値段を言うとすぐ売ってくれるんです。例えば、ルッコラという野菜があるんだけど、当時の僕はルッコラを一つ25円で買って「安いな」と思っていたんです。

すると隣ではそれを2円で買っている人がいる。だから今度はそれよりももっと安い金額をいうようにしたんです。すると「NONONONO、真面目に言ってよ!」って商人は言う。「いや真面目に言ってる」と言い返して、そこからやっとその値段の交渉が始まり、決まる。物の価値に絶対的な基準はないので、当然値段も、その時々、人の数だけあるということなんです。

たった一つの野菜を買うだけでもわかるように価値観って人の数だけあるんですよね。常識も人の数だけあるんです。
よく平均的とか普通とかって表現が使われるけれど、平均の人なんていないわけでみんなどっかずれていて、ちょっとおかしい。それが物差しというか価値観というか、常識が人の数だけあるっていうふうに僕が言うことの背景になっているわけです。それに気づかせてくれたのは、バザールの商人でした。

カイロの市場

中東を百年でみるか、数千年でみるか

日本人から見るとカイロは、一般的に思われている日本的な価値観とは違う人たちが住んでいて、所謂日本の常識から外れている人たちばかりなんです。さらに、当時は1人当たりGDPが年間1000ドル(当時10万円、日本の約1/40)程度と低い。それでも大人達がすごく楽しそうに街中で鬼ごっこをしていたりとかして、日常を送っている。

現在、世界銀行が定める貧困基準の収入は11.9ドル。貨幣経済で考えれば貧しいかもしれないけれど、お金を使わないで、仲間と一緒に楽しく過ごして、暑くも寒くもないような所に住んでいられて、お腹いっぱい食べられる。そうした暮らしで人間は「幸せ」を感じることができるわけですよ。「幸せ」かどうかっていうのは自分の物差し次第であること。それをエジプトのカイロに1年半暮らして感じたんですよね。

 中東の本当の姿ってあまり知られていないと思っています。例えば日本で中東といえば、テロ、紛争、石油、砂漠だったりとややネガティブなイメージが先行しますよね。最近では、アラブのお金持ち、ドバイの高層ビル、というのもあるかな。

 それらは確かに事実でもあるけれど、歴史をより俯瞰して捉えてみてほしい。ヨーロッパがまだ闇の時代だったときに、中東はもう華やかで文化文明の最前線にいっていたわけです。たとえば僕が今飲んでるコーヒー。これも中東のものだし、今はもう中東イスラムの人たちは宗教的に禁止されているけれど、アルコール類、ビールやワインも中東で発祥して欧州に広まったものなんです。

 歴史の分母をどう捉えるかです。100年を分母として考えると確かに中東は荒れていた。でもそれを3000年〜5000年に変えると世界四大文明のうちの三大文明、即ちメソポタミア、エジプト、インダスが栄えたのが中東なわけですから、中東はすごく豊かだったのです。

おそらく僕らが見ている中東のイメージは石油の世紀って呼ばれた20世紀に入って造られたものです。第一次世界大戦後、欧州列強の戦勝国が自分達の都合で国を分割し国境を引きました。それが、イスラムスンニ派、イスラムシーア派、ユダヤ、キリストという宗教的な差異を助長し対立を生み出す原因になった。そのために中東が火薬庫みたいになって争いを始めてしまったんだけれども、もともとそこは大きな帝国の中の地域地域で、信仰の自由もあったので、近代に見るような争いはなかったわけです。僕らは断片的な情報しか伝えられていないから中東についての偏っているイメージを持つことになったのです。

 よく言及されるイスラムでの女性軽視も、人権が無視されているのではなくて、女性を大切にする、守るということのためにいろんなものが決められているという見方もできます。例えば奥さんを4人まで持てますという制度なんですが、昔からキリスト教もイスラム教も宗教の名のもとに戦争をしていた時期が長い訳ですが、旦那さんが戦死してしまうということもあるわけです。そのときに未亡人になった人を誰かが一緒に育てるという意味で4人までの奥さんを持っていいですよってなってるわけです。一見僕らが見ると男性寄りだというふうに見えてしまうことも、ちゃんと理由があってそうなっているということなんですよね。

アラブの理解者

 カイロで1年半、アラビア語の勉強や仕事をしたりすると、友達もできて、自然と中東とかアラブの文化について詳しくなって慣れていきました。そして、いつの間にか、日本人にしてはおそらく珍しいと思われる中東の理解者になったのだと思います。

中東で中東を感じ続けたことで、それが自分の得意技の一つになっていたんですよ。そして自分の得意なことを生かすと、それが周りの人や世の中のためになって人が喜んでくれるようになった。自分はそれが嬉しかったんです。

やはりそのきっかけは、あの時カイロ・アメリカン大学に留学したことでした。

サウジ アラビア人にファイナンスを説く

学生へ一言

 今の学生に一言あるとしたらですか? 人生は言ってみれば、「生まれてから死ぬまで、一度きりの暇つぶし」。だから「何でもやっちゃいな!」って思います。できないと決めて、限界を決めているのは自分で、限界をとっぱらうのもまた自分なので、とりあえずやってみなって言いたい。結局、人に駄目って言われても最終的にそれで行動しないという決断をしてるのは自分だから、自分で自分の限界を決めるなよ、って。すごいことやんなくていいんです、1 ミリ。 他の人より 1 ミリ先を見て、行ってみれば良い。すごい無理をする必要はもちろんない。人と全然違うことやってみようっていう必要はなくて、ほんの1ミリだけ先を見てみようという気持ちの積み重ね、それが自分の限界を 少しずつ取っ払って、その先の世界を見に行くっていうことに繋がっていく。今でも自分自身に言い聞かせていることだし、学生のみんなにも伝えたいことですね。

(インタビュー:2022年6月)

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