成長して自由になる

武蔵野美術大学

成長して自由になる

PEOPLEこの人に取材しました!

玉利ドーラさん

異文化ナビゲーター

玉利ドーラさんは、クロアチア人の父と日本人の母をもつ。クロアチアで生まれ、その後、難民としてドイツと日本へ移住、その後、日本を始め、8カ国での生活経験を持ち、現在は、フリーランスで、異文化ナビゲーターとして活動中。私たちは、そんな玉利さんのいろいろな国を回ることで得た豊富な人生経験を伺った。玉利さんは、不自由な経験があったからこそ成長できたと語ってくれた。

<プロフィール>
1988年クロアチアのドゥブロヴニクに生まれる。3歳の時クロアチア紛争の勃発により難民となりドイツへ逃れた経験を持つ。母親の実家の鹿児島で4年過ごし再びクロアチアへと戻り、クロアチア代表奨学金留学生としてアメリカの高校へ留学。ドイツの大学に進学し実存哲学などを学んだ後、オランダの大学で心理学などを学び、香港大学の交換留学にも参加する。日本で英会話講師として就職した後イギリスの大学院へ進学し再び心理学・脳科学を学ぶ。その後英語教師の経験を活かしピースボートクルーズの英語教師としてボランティアをしながら、台湾、インド、ギリシャ、キューバなど25もの国を巡る。2019年にNPO法人WELgeeの職員となり通訳や研修、セミナーの事業統括などの活動をする。現在はフリーランスで、違う文化を持つ人たちがお互いを理解し関係を持つために、自分を表現するサポートをしている。

ピースボートとの出会い

私はクロアチアのドゥブロヴニクという街で育ったんですが、10代の頃、その街にピースボート*がよく来てくれていたんです。ドゥブロヴニクは、戦争**で2 番目に酷い衝撃を受けた街だったので、そこにピースボートが平和への活動の一環で来てくれていました。うちの家族が唯一ここに住んでいる日本人一家ということでもありましたし、うちの父が新聞記者でもあることから、ピースボートと繋がりを持っていて、一回私も船内のツアーをしてもらえたんですね。そうしたらピースボートに乗っている人たちがかっこよくて、街の人たちとサッカーをやったり、街中でダンスパフォーマンスをしてくれたりとか、すごい憧れを持ちました。そこで自分もこういう風に旅するにはどうしたらいいんでしょうかと聞いたら、無料で働ける方法があると教えてもらい、検索したら、英語の講師として乗れるという情報を見つけたんです。そうするためには、少なくとも2 年の英語講師経験が必要だったというのがあって、いつか大人になって日本に住めたら英語の講師になって、その後ピースボートで世界一周したいなと思ったんです。

*ピースボート
国際交流を目的として設立された日本の非政府組織(NGO)が企画、実施する世界各地を巡る船舶旅行の名称

**クロアチア紛争
1991年から1995年にかけての、クロアチアのユーゴスラビアからの分離独立、および国内でのクロアチア政府とセルビア系住民による自治政府の対立をめぐる紛争

ベルリンの大学の卒業式。中央の青いドレスが玉利さん

哲学から心理学に進路を変える

私の人生は突然計画が変わってしまう傾向があります。ドイツの大学で哲学を学んでいたのですが、心理学を学びたいということに気づき、そちらでオランダの大学に入りました。10代の頃から色々人生のことを内省的に考えるのが好きで、「この辛い経験はこうだったからこういう良いところ、強みが生まれた」といった解釈をすることが多かったです。そういった考えに興味を持っているとはっきり気づいたのが大学1年目のときでした。哲学や政治のその議論されているテーマの話に集中するより、発言する人を見て「なぜこの人はこんな発言をしているのだろう」「どういう経験があったからこういう風に考えるようになったのかな」といったことを考えている自分に気づきました。

ピースボートの夢を叶えるため、日本で英語教師として就職

⾃分のキャリアが始まったのが英語の講師でした。私がいた英会話の学校では、日本人スタッフと日本語が話せない英語講師スタッフって混じらなかったんですね。周りで見る先生とか、⻑くいる人ほど、どよんと沈んでいるような気がしました。そこで彼らの日本社会の解釈をきくと、「制限があって入りづらくて、自分が自由に生きる仕組みがない」という話をすることが多かったんです。しかし周りを見るとやはり生き生きしている人たちはいるんですよね。そのような人たちは一つの英会話学校ではなく、広い外の社会と繋がっていた人たちで、彼らは他のところにメインで所属していて、自分の人生にバラエティを作っていた人たちなんです。自分も海外育ちで、日本では主に自分の所属先の小さな学校しか知りませんでした。そこで「外の社会への入り口ってなんなんだろう」と思いました。でも、分からなかったんですよね。情報が流れてこないし、検索しようとしても、大人が使うような四字熟語とか分からず生活してきたので、単純な言葉で検索すると単純な情報しか出てこないじゃないですか。社会の制度自体がわからなかったので情報を引き出す聞き方もわからない。その当時は、情報にたどり着けないことで「この社会で自分はやっていけるのか」とすごく不安でした。

ピースボート、生徒の卒業式にて着物を着用

ピースボート、世界一周の経験

日本で英語講師をしながら貯金を作った後、イギリスの大学院に通いました。大学院で心理学の博士号を取ろうと思っていたんですが、西洋の心理学では世界の人の心理を説明しきれないと強く感じ、この分野で博士号に進むのは無理だと思いました。そこで、修士号修了後、次の道は何にしようと考えた時に、ピースボートを思い出しました。日本での2年間の英語教師の経験があり応募条件を満たしていたので、応募しないと損だなと思い応募したところ、受かることができました。

色んな経験が積まれているのが、ピースボートの船旅だと思うんです。ピースボートはエンターテイナーというより、色々な国のN P O関係者、社会活動家、教授、新聞記者など、色んなお話や世界を表現できる方を招いて、水先案内人という立ち位置に置くんです。その人たちのレクチャーやワークショップがある他、自主企画というのが主にあって、乗船者が自分たちで企画して色々なイベントを作ってくれたりしました。

ピースボートは、コンテンツが豊富で、自分の選択次第で自分の経験が作れます。1000人の乗船者にピースボートでどういった経験をしてきたのかと質問した場合1000通りの違う答えが返ってくると思うんです。私の場合は水先案内人のトークを毎回聞きに行っていました。また好きなテーマ関係の上映会やワークショップなどに参加していました。参加して面白かったのは、アウシュビッツに行ってきた人達の報告会でした。以前のナチスのドイツ、その第二次世界大戦に向かうドイツと今の日本の状況がどう似ているかなどの解釈を聞くことで、各地の今の社会に関して考える機会になりました。

シルバー世代の方々もとても多く乗っていました。彼らは日本文化の最高の大使だと私は思っています。まず喋る日本語が美しいということがあります。彼らは、茶道のワークショップや、文字の書き方を教えたりしていましたが、そこから日本の生きた文化を知ることができ、非常に楽しかったです。
またすごく楽しかったのが、毎朝ただ起きて上に上がっていくだけで、風景が変わっているっていう経験です。ある朝はバレッタの石畳の街並みに囲まれて起きたり、バハマのトロピカルなパームツリーの白い砂浜に囲われて起きたり。他には、グアテマラの火山が遠くに見える風景を見ながら朝ご飯を食べたりとか、サントリーニ島の元火山を遠くに見晴らしながら朝食をとったりすることとか、世界の色んな景色を楽しめました。

WELgeeでの活動、研修をしている玉利さん

日本でWELgee の職員になり、今までの経験を活かす

ピースボートを降りる頃には、所持金が300ポンドくらいになっていました。300ポンドとスーツケース、就職先も入居先もなく、知り合いもいない、何も計画できないまま横浜に流れてきて、「はい、生活始めましょう」っていうそんな感じで日本での生活が再開しました。しばらく色々なお仕事をした後、難民と共に社会を作るNPO法人WELgeeに出会い、そこで活動することになりました。

WELgeeで関わった難民の方は、アフリカと中東の方が中心でした。なので、まず文化的な違いが目に止まります。アフリカ出身で国際政治に興味のある難⺠の友達が、時間通りに来るバスに驚いて「アフリカは日本から色々学べると思うんだ」と言っていたり、ある方は道で会う人みんなが礼儀正しいと言っていたり、日本の良い所をすごく尊敬してくれているのを耳にします。しかし、同時に社会に入っていく難しさも目に止まっています。難⺠の法的枠組の中で最初の8ヶ月間は働いてはいけない決まりになっていて、その期間の生活費の心配があります。また日本は難⺠の認定率が非常に低い国なので、申請が通るかという不安でなかなか未来を考えることに集中できないという方々もいますし、もし不認定になったら働けなくなって家族とも引き離されるということを心配する方もいます。日本はいろんな可能性があるとは気づきつつも、自分は日本社会とつながれないんじゃないかと思われている傾向があるのです。

また給料明細から社会保険や健康保険が天引きされるということがあるんですが、祖国の制度と違うのでそれがわからないんですよ。「給料を私に言わず減らしてる。これ騙されてるんじゃないか」と不信感を持つこともあって。明細をみて説明すると「実際いい会社だったのか」というふうになったりすることもあります。
些細なところで面白かったのが、ある時パキスタンの出身の友達が「僕ってこの社会で友達が出来ないんだ、嫌われてると思うんだよ」と言っていたんです。理由を聞いたら、「だって誰も自分の家に招いてくれないじゃないかい」と言うんですね。「だったら日本より家が大きいってことかな」と聞いたら、「家が大きいんじゃなくて、友達が寝泊まりするための別の家をもっているんだ」と言われて「日本にはないよ」としか言えなかったんですね。彼の地域では、先祖代々同じ土地で生きてて、色んな人を泊めるための建物自体があるらしくて、招待し合うことが親しさを表現する方法になっているみたいなんです。だけど、東京では友達を泊めようと思っても、そもそも部屋が小さくて泊められないなんてこともあるので、そこで親しさを測ってしまったらちょっとキツイなっていうこともたまにありますね。

新しい環境の中でコミュニケーションの齟齬が起きているときは、コミュニケーションの問題だというふうに、捉える人って非常に少ないんですよ。自分も色々環境に身を置いてきましたが、すぐそう思わなかったです。考えている意味がそのまま返ってきていると思ってしまい、「なんて使えない情報なんだ、なぜ応援してくれていないんだ」と傷ついて凹んでしまったり、悩むことが多かったです。後々、細かいところに焦点を当てて理解を深めて初めて、「あーこういう制度の違いがある、あの時の会話はこうだったんだ」とか、「自分だけが不利だと思っていたけど、これって社会の仕組みでただこうなっているんだな」みたいなのがわかったりして。最初の頃は気づかないんですよね。

成長の快感を人にも味わってほしい

わたしは大学で実存哲学を学んだ経験があります。それは人が生きている中でさまざまな葛藤に出会い、それを乗り越えることで新たな成長段階に上がるという考えです。成長できることは幸せだと思うんです。成長することで、以前対応できなかった状況に対応でき、自立した人として色々な状況もハンドリングでき、自分らしくいられる、自由がきくっていうことが何よりも幸せだと思います。どうすれば成長をアクティブにうながせるか考えたところ、いろんな違う環境に自分を置いて、違う刺激を受けて違う課題に直面して違う葛藤を感じてそれを解決していこうという考えに至り、その考えからいろいろな国に行ったという背景があります。

葛藤というのは非常にモヤモヤしてぐちゃぐちゃして気持ちがよくない。もつれている糸のようです。しかし、そのもつれた糸が解けたときにスカッとして、新しい自分に出会えたような快感があります。他の人にもそれを経験してほしい。難民の人たちや一般の外国人が異文化の葛藤を感じていたり、違う背景同士のやり取りで異文化のいざこざがおきてお互いモヤモヤピリピリしている場面を見ると、自分としてはチャンスに見えてしまうんです。話を聞きながら彼らの糸をほどいていくことで、彼らの感情がすっきりして、その人らしい実存哲学的な成長の段階に入ったのがわかると、自分も幸せです。成長の段階のモヤモヤの殻を破る手伝いをするのが自分の役割だと思っています。異文化でお互い苦手意識が強い環境で、理解を深めてお互いを好きになるためのお手伝いをすることに自分はやりがい、幸せを感じています。

「難民」はただの紙切れ

⾃分の捉え⽅としては、難⺠という⾔葉⾃体が学⽣という⾔葉と似ているなと思っています。各学⽣は誰かの⼦どもでもあって、誰かの兄弟でもあって、どこかの出⾝で、違う思考を持っていて、違う趣味を持っていて、違う夢を持っている⼈たちですよね。その中で「私は学⽣です、以上です」という人はあまりいないんじゃないかなと思うんです。何か違う⾃分のアイデンティティというものを確⽴すると思います。難⺠というのも、あくまで法律的な枠組みであって、人を目の前にした時、単純に⾔ってしまうとただの紙切れだと思うんです。しかしそこから⽣まれてくる制限というものが、難⺠の経験になってしまうんですが、同じ難⺠の⽅でも多種多様な⽅たちがいるんですよね。

様々な難民の方と接する刺激

若い⼈もいれば歳をとっている⼈もいますし、⾳楽好きな⼈もいれば、医学を学んでいたり、起業家だったり、歌⼿であったり、社会活動家であったりする⼈たちもいるので、各⼈から違う話を聞けるというのが⾮常に⾃分には刺激的になっていますね。私の周りでは難⺠として国を逃れてきた⽅々というのは、とても強い意志で⾃分の活動を⾏なってきて、それが独裁政権の⽬にかかったりしてしまい国を追い出されたような⽴場という⼈たちが⾮常に多いんですよね。そういった将来への考えや強い意志、価値観を持つ⼈たちと出会っていくと、「じゃあ⾃分はどうなんだろう」、「彼らはここまで国を思っていて、⾃分の国、⾃分の⼤陸の未来を⽇々考えてこんなアクションを起こしてきたけれど、⾃分はどんなアクションを起こしていきたいのかな」といったことなどを考える機会があります。そういった内省的なところが個人的に楽しい、面白いと思います。そして私が届けてきた研修では更に他者と一緒に今、社会や各人の生活で起こっていることを振り返り、「変えれない・変わらないと思っていた現状に対して自分は何ができるのか?何をしたいのか?」を一緒に考えていくことで生まれてくるものは多かったです。

難民の人たちのラフストーリーやあり方は接する人たちの心を強く揺さぶり、聞き手の中に眠っていた情熱や夢を目覚めさせ、自分らしい人生へ踏み出すきっかけをくれます。
難民の人たちと身近にいることは、生き方はもちろん、キャリアやビジネス、様々な部分で本質を考えさせてくれる体験です。

異文化ナビゲーター

定義を整えている段階ですが、異文化ナビゲーターとは要するにお互いの良さを楽しみ合いながら、各人がより自分らしく他者と繋がれるサポートをする役割です。「異文化」というと「異国」をイメージすることが多いですが、各人の内面は違う経験や人たちとの交流で創られていて、各人複数の文化で出来ています。私が思う異文化の定義は国や地域、年齢、ジェンダー、大学の専攻、職種、またはクラブ活動など様々な特徴で他の人とつながっている部分を意図しています。同じ国同士でも業界、大学の専攻や出身校が違えば異国の人と喋るよりも通じ合えないことだってありますよね。そこで私の手段としては講師、通訳、ファシリテーター、研修を行って、自己を理解し、身の回りの世界を知って、お互いの理解を深めて先に進む、生産的な関係をもつことを実現させます。

人間関係、特に全く違う背景を持っている人と関わり合うことは難しいことも多いですが、それだけ促される成長や楽しさも多いと実感してきました。「違い」や「多様性」の話はよく「難しさ」や「(誰かが)我慢すること」に注力されます。確かに、そういう側面は多くあって、意識することは大事です。同時に、違いと共に生きるということは、新しい発見や新たな楽しみが皆のために多く生まれてきます。例えばアメリカの音楽は多国籍の人たちが集い新たなジャンルが生まれてきました。今は日本人の間でも人気なシェアハウスとは元々外国人が日本で家を借りやすくするために生まれた「外国人ハウス」から始まりました。違う世界に踏み出して、新しい楽しみや人生を穏やかにするヒントをより多くの人が発見するきっかけを作っていきたいです。

(インタビュー:2021年6月)

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