価値観の共有への第一歩はお互いを知ること

武蔵野美術大学

価値観の共有への第一歩はお互いを知ること

PEOPLEこの人に取材しました!

綱島延明さん

日本通訳翻訳センター 代表取締役

綱島さんは「中国残留婦人」*3世だ。1990年に父母と共に祖母の郷里、長野県穂高町に移住した。多感な学生時代を経験し、2010年に日本通訳翻訳センターを立ち上げた。「中国残留孤児」支援活動などに参加し日中間のトラブルを身近に感じてきた綱島さんの経験や、異なる文化をもつ人々どうしが価値観を共有することの大切さについてインタビューしました。

※中国残留婦人
戦前から戦中にかけて中国東北部(旧満州)などに渡り、敗戦前後の混乱の中、家族を養うため、あるいは生きるために中国人男性と結婚するなどして中国に残った、敗戦当時13歳以上の女性たち。

来日した当時の思い

 

Q.綱島さんが中国残留婦人3世として来日した時のことについてお聞きしたいです。 

日本に来たのが高校2年生のころで、今から31年ぐらい前ですね。中国の教科書では日本のことを知っていましたが、実際の日本は全く未知な世界なので、最初は結構戸惑っていましたね。当時はおばあちゃんが住んでいた町がいいねという話で、家族と一緒に長野県の穂高町で住み始めました。それ以外の場所は考えもしませんでした。 

 Q.長野県に住み始めて何か印象に残ったことや驚いたことはありましたか。 

町並みがきれいだということを今でも鮮明に覚えています。僕が中国で住んでいたところも哈爾濱(ハルビン)よりさらに北の田舎で、中国の田舎から日本の田舎へ、そういう意味ではほぼ場所的には近いですね。日本の場合はきれいで、整然としていて、道路もそうですし。田舎なんだけれど、ちょっと都会のようなインフラ整備がされていた印象が大きいですね。 

長野県は日本でも健康寿命がかなり長い県で、空気もきれいですし、水もきれいで、環境もなかなかいいので、いきなり中国から行ったところがそういう美しいところですごく良かったと思いますね。ただ、生まれ育った中国のふるさとの方がずっと懐かしくて、友達とか親戚と離れてやっぱり寂しい思いでいっぱいでしたね。 

今思えば穂高町はすごく豊かでいい場所なんですけど、やはり最初の寂しさというのが圧倒的に自分にとっては辛いものであったんで、今やっと長野県の良さに気づきました。当時はまったくそんな感じがしなくて、面白くない、帰りたいという気持ちばっかりでした。 

来日当時(1990年)

すべての原点ともいえる高校時代 

Q.教育の面から言うと、どうしたら若い世代に友好な日中関係を理解してもらえると思いますか。 

なかなか難しい質問ですね。ずっと悩まされたこともあるんですけれども、教育というのは本当にものすごく大事だと思います。僕は中国と日本の両国の高校を経験したので、いろんな意味で違いが大きすぎたことをすごく感じています。価値観もそうですし、歴史観もそうで、ぶつかることが本当に多かったですね。なんでそんなに違うのかというのをずっと最初から悩んでいたんですけど…そうなる理由というとやっぱり相手を知らないからですね。 

まあ僕もそうなんですけど、日本に来て、当初中国はこうだよねと言われることがよくあって、逆に中国の人からすれば日本はこうだよねという先入観、既成概念みたいなものをお互いに持っていて、相手が何かを言おうとしても、最初からそうだと決められてしまいます。 

例えば中国の歴史の授業では中国が侵略されていたことがテキストにいっぱいで、逆に日本はその辺のことが少なくて、いろんな歴史をたんたんと述べていて、中国で勉強出来なかったことに触れることができました。また、中国では今の時代は前よりだんだん進化してきたのがいいという歴史観があるので、日本の場合はちょっとまた違う感じで、最初は戸惑っていました。それが違いすぎることで、高校の先生と議論して、喧嘩みたいなこともやったことがあるんですけど、今思えば、自分が知っていることがものすごく少ないし、知識も足りなくて、知らないのに「先生何を言ってんだ」みたいな生意気なことを言っていたのを覚えていて、本当に恥ずかしい思い出です。 

ただ、だんだんいろんなことを知るようになってきて、相手は「こう思っているんだ」と今は理解できるようになりました。逆に中国は日本にこういうふうに見られていたということも意識できて、もう一回中国の歴史を振り返ると、中国がこういうふうに生徒に教えていたらもっと世界的な考えを共有できるんじゃないかというのも思いました。当然国それぞれの教育方針が違うので、それぞれがどこまで生徒に教えるのかというのも悩まされたところなんですけど、自分に対してもっと興味を示してくれればもっと突っ込んで理解もできるでしょうし、興味を示さないと理解も最初からできなくなる。どうすれば興味を持たせられるかというのは課題でしょうね。 

Q.日本で過ごした高校時代がよく話に出てくると思いますが、それは綱島さんにとって大事な時代なのでしょうか。 

そうなんですよ、大事大事、すごい大事。今のすべての原点とも言える時代です。中国の高校ではすごい勉強漬けの毎日で、朝5時から夜9時半まで、勉強以外何もしないという感じでした。日本の高校では、日本語が分からないというのもあったのですが、勉強以外も部活動やイベントがいろいろありまして、先生が親切で、熱心に接してくれたので、来たばかりの僕の不安が柔らいだということもあって、感謝の気持ちでいっぱいです。卒業してからもなんかあったら心配して連絡してくれるので、その時の学校のこと、先生のことを今でもありありと覚えていて、高校時代はすべての原点だと言えますね。僕が昔教えられた日本のイメージが実際に付き合っていた人のイメージとは全然違うので、それは僕にとっては衝撃でもあって、驚きでもありました。今では恩返ししなきゃという気持ちが湧いてきました。 

母校の前で(1997年)

社会での存在価値は、人のためになること」

Q.会社を立ち上げたきっかけはなんですか。 

会社を立ち上げたきっかけっていうのは「残留孤児」を応援しようと2000年に通訳と翻訳のボランティア活動をしたのが始まりでした。当時日本には残留孤児が約2500人、残留婦人も6000人くらいいて、実際ばらばらで住んでいるため、そんなに普段接することはあんまりなかったです。2000年から残留孤児の人たちがどんどん歳をとってきて、7割ぐらいが国から生活保護を受けていました。60歳ぐらいの人が多くなって生活保護だけじゃ老後の生活が苦しいと、国に訴えることになりました。国の方がなかなか良い解決策を出してくれなかったので何回も署名運動をし、私もそこで残留孤児のために通訳をしました。それでも国の方がうまく政策を出さなかったので、初めて「残留孤児」数千人が全国から一緒に集まって国を訴えることになりました。 私はちょうど大学を卒業したばかりだった時で、じゃあみんなで一緒に応援しようとなりました。訴えるとしても弁護士と話をしなければならないし、いろんな情報を集めないといけないので、そういうところで通訳がたくさん必要になったので、そこから私は10年近くずっとボランティア活動をやっていたんですね。そんな活動が終わって、残留孤児や残留婦人の生活がそれなりに改善できたと思います。 

そのあと翻訳会社に勤めていたこともあったし、ボランティア活動をやっていたことを生かして自分もいずれ翻訳会社を立ち上げたいと思っていました。言葉の壁にぶつかって、困っている人たちに少しでも力になりたいと思ったのが、私たち会社のモットーと言えます。 

 Q. 会社を運営しながら影響を受けたことはありますか。

日本語を翻訳するのは英語や中国語、韓国語がいちばん多くてそれ以外にはフランス語、東南アジアの言語など数十カ国語をやっていますけど、どの言語にしても日本人とネイティブの人がいらっしゃって、つまり日本の方半分、外国人の方が半分ですね。

私たちの業務形態は基本登録制の翻訳通訳者なのでプロジェクトがあるときにだけお願いする形です。 例えば、アジアに関する展示会を開くときに、日本に来る韓国人のための通訳を派遣します。 やはり文化的な違いもあるんですが、例えば韓国の通訳者は明るくて話し方がすごく親切でお客さんを「わあー!」と言わせるエネルギーを持っています。すごく積極的なんですよね。他の人たちは控えめだったり大人しい人もいるけど、韓国の方々の明るい部分には助けられているところがあります。他の国もそれぞれ違う特性、個性があっていろんな人と接するのが本当に幸せです。

Q. 国と国を繋ぐ翻訳の仕事の価値と、それは誰が救われるのかについて教えてください。 

会社を設立することとは誰かのためだと思っていました。でも、よく考えると一番救われているのは自分自身なのかもしれません。 私は大学を卒業して貿易の会社に勤めていたんですが、なかなかうまくいかなくて、一年二年やっていくうちにその仕事が好きじゃないことがわかりました。物を単純に売ることじゃなくてやりとりをするときの通訳が好きだったんです。 そうなると、人のためというよりも、自分が翻訳通訳をやったことで、結局自分が必要とされたのが嬉しいんです。だから仕事をいただくことで、自分の社会での存在価値を感じることができます。私にとって自分の社会での存在価値とは、人のためになることなんだと思います。 

「残留孤児」「残留婦人」のための署名活動(2000年)

コミュニケーションの大事な部分を経験 

Q.日中間の力になりたいと考えるようになったきっかけを教えてください。 

大したことはないのですが、いただいたお仕事の中で、例えば中国の北京の方々が定期的に東京に来られます。その時に色々な文化の交流やイベントを企画するんですけど、そのような時に結構ぶつかるんですね。向こうから日本への要望があるけど日本側が断ったという状況の時に通訳をすることがありました。その時に通訳の言い方ひとつでヒートアップしてしまう可能性もあります。だから自然と通訳の役割はものすごく大事になってきて、言い方のバランスやコミュニケーションの大事な部分を担っています。それは政府になろうがどの対象になろうが同じだと思うんです。両国の要望に板挟みになることもあります。どちらもわかるんですけど、なぜそんなに譲れないのか、どんな違いのせいなのかっていうのを毎回考えさせられます。例えば、中国人、韓国人というとすでに違う国という認識を背負ってしまっていて、違う文化、人間同士が出会った瞬間にはすでにぶつかり合いは始まっています。そのようなことを意識して相手が受け入れやすい情報を適度に補うことを心がけています。 

言葉以上に文化の背景、こちらの国では当たり前だけどあちらの国ではそうじゃないということもあります。また、相手の文化に対して固定観念をもってしまっている人もいます。だから、その人の状況を考えて説明を加えるとある程度理解してもらえます。その辺は文化の理解がものすごく大事になっていますね。 

横浜での通訳の仕事をしているところ(2006年)

何があっても徹底的に話し合う

Q.「日本中国友好協会」のウェブサイト*に掲載されていた綱島さんの記事の中で、日中間のトラブルについて「冷静な話し合いを、心から望んでいます」とありましたが、具体的にはどのような内容の話し合いが必要だと考えていますか。 

その時のインタビューというのが尖閣諸島の問題があってお互いの国民感情がヒートアップしていた頃でした。日本の人も中国の人に対して嫌悪感が強くなっていて、逆に中国も現地の車を日本製というだけでボコボコに破壊したりする。それをみていてお互いどこまで行ってしまうのだろうかという怖い思いをしました。だから僕が思ったのが、日本と中国に国の問題があった時に相手の製品をボイコットする、さらにボコボコにする、あるいは店を破壊するようなことは百歩譲っても冷静ではない。賢い対処の仕方ではない。たとえ気持ちが分かるとしても、そういう行動は絶対にとってはならない。そういう意味ではまず冷静になって、問題があった時は外交ルートを通じて交渉するなりして冷静な話し合いが必要だと僕は言ったと思います。 

ただ、国同士なので色々な問題があって、一言二言ではこっちが正しいこっちが悪いと言えないこともあります。それにしてもやはり人類も散々戦争をやってきていて、戦争が無ければ僕も生まれて来なかったので、ある意味僕は戦争が残した負の遺産の一つだと思うのです。 だから戦争があって生まれたというのを戦争に感謝するべきなのか、恨むべきなのかと思ったりするのですけど、生まれた以上冷静では無くなって戦争にまで発展するようなことは絶対に避けたい。そういう意味ではどんなことがあっても暴力はダメですし、冷静な話し合いは必要だと僕は思っています。何があっても徹底的に話し合う、言葉が激しくてもその方が良いと思いますね。 

*日本中国友好協会

https://jcfa-net.gr.jp/watashi-chuugoku/2010/101115.html 

日中をよく知る自分に求められていることとは

Q.日中が課題を乗り越えて、二つの国で本当の意味で心を開いて協力ができるとなった時、どんなことがしたいですか。 

僕は中国で18年間生きていて、日本でより多くの時間を過ごしているんですよね。だけどこの二つの国、未だに僕の家族でも日本のことをあまり理解できていない部分が多々あるんですよ。なんで日本人はこうなんだってぶつぶつ言ったりする。逆に、日本の人も中国の人に対して同じことを言ったりするので、仮にその国に長くいたとしても、その国に真剣に目を向けなければ、いつまでたっても実際の理解はできないと思うんですよ。 

日中の交流が隋や唐の時代からずっと盛んにあったと思うんですけど、現代においては経済交流以外の心が通じあった交流が果たして行われているのかと実は思っていて、それはどうしてかと言うと価値観の違いと偏りがものすごく壁になっていて、本当にぶつかり合ってなんでもかんでも話せるようになるにはやはり、価値観のある程度の共有というのが必要になってくるんですよね。将来その辺の問題がある程度解決に向かえば、僕は長いこと日本にいて、長く中国で暮らしていて、両方のことをよく理解しているので、その経験を活かして両方の良いところを互いに伝えていくことが、自分に求められていることなのではないかなと思っています。 

Q.綱島さんのように二つの国にルーツがある立場でなくても、相手に自分の文化を提示する、こちらも相手の文化を理解するという積極的な気持ちがあれば問題は解決に向かいますか。 

そうですね。例えばこういうインタビュー、プロジェクト自体も、価値観の共有への一歩を踏み出せているんじゃないかと思います。それに韓国の方と中国の方と日本の方が共同でやり取りをしているうちにも、お互いの考え方とか今まで気づき もしなかったことを相手はこう思っているんだという、多分そういう気づき自体もおそらく、異文化交流の一つになっていると思うんです。  

現在の仕事風景(2020年)

(インタビュー:2021年5月)

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