仕事は人と人のつながり〜中国で電子辞書を売ったプロフェッショナル

武蔵野美術大学

仕事は人と人のつながり〜中国で電子辞書を売ったプロフェッショナル

PEOPLEこの人に取材しました!

吉田修作さん

行政書士吉田国際法務事務所、元カシオ中国支社社長

学生時代のアメリカ研修ツアーをきっかけに、国際的な仕事に興味を持った吉田修作さん。そして、大手電子製品会社カシオに就職。その後努力が功を成し、カシオの中国支社社長にまで就任。そしてカシオ製品で有名な電子辞書の企画・販売に携わるなど優れた功績を残す。退職後もその国際的な職務経験を生かすため、行政書士の資格を取得するなど、果敢に活動を続けている。今回は、その稀有な人生について国際的な職務経験という視点を中心にインタビューをした。吉田修作さんのこれまでと、これからについて深掘りしていく。

人生の転機

―吉田さんの半生を教えてください。

私は群馬県の富岡市出身でとても田舎でね。例えば英語の勉強なんていうのは試験のためだけにやるもので、一生英語を使う必要なんかないだろうと思ったんですよね。だから正直言って英語は好きじゃなかったんです。ただ高校は、ミッション系の私立高校だったんですよ。そこには宣教師のアメリカ人の先生がいて、その先生が高校2年か3年の時にアメリカに連れてってあげるよというツアーを企画してくれて。それはアメリカのクリスチャンホームをめぐるツアーという研修でして、それに私は手を挙げたわけですよ。

―アメリカのツアー研修はどうでしたか?

初めて16か17 歳の時に海外に行って3週間アメリカのクリスチャンホームを巡りまし た。サンフランシスコからシカゴまで7ヶ所ぐらいを転々としながら行ったんですよね。そこで初めて英語の世界に触れて、俄然興味が湧いてきました。1番驚いたのは3ヶ所目のロッキー山脈近くのソルトレイクシティーに3泊した時です。その時私は英語が全くできなかったのだけど、ただ、ホストファミリーの人がいい人たちっていうのは伝わってきたんです。そして、楽しく過ごした上でそこからバスに乗って次の街に行くという時に、 思いがけず大泣きしましてね。生まれて初めて知らないうちに涙を流すっていう経験をしたんです。言葉も通じないのにそういう感情が芽生えるっていうのは予想もしていなかったことで、感激ですよね。自然に湧き上がる衝撃。魂の動きなんでしょうね。以来ですね、アメリカ大好き、英語大好きになったんですよ。これは大きな自分の人生の転機ですねそれから、受験勉強に力入れて大学に入り、ESSっていう英語の会話のサークルに入ったんですよ。大学時代は英語の勉強しながらと、非常に楽しい大学生活を送りました。

カシオとの出会い

―カシオに入社することを決めた理由は何ですか?

就職の時も英語を活かした仕事だったり、英語を使う場面に自分が行けたらいいなと思ったんです。そしたら日本で海外とのつながりが強いっていうと、商社かメーカーが大きかったんでその二つに絞りました。その二つを比べたときに自分達が作ったものを売るっていう方がいいなと思い、メーカーの方に固めて行ったんです。その中でカシオは結構海外でブランドが通っている会社で、海外に強いので楽しそうだなと思いました。

入社してから幸い配属の時に海外営業に配属してくれて、営業で私の同期は90人ぐらい入ったんですけど、海外営業は9人だったんですよね。ラッキーだったなと思います。

中国日本語教育学会代表団の方々と(左3番目が吉田さん)

中国へ

―どういう経緯で中国に行くことになったんですか?

タイミングが一つあると思いますね。ちょうど私が中国に行った頃では社会的に動きが賑やかになっていた。会社の中でも中国に対する注目っていうのは、非常に高かったです。私が最初に配属になった部署っていうのがアジア中近東課でした。そこで中国の電子機器に関する市場をどうするこうするっていうのは非常にホットな話題で、私も自然と興味が深まっていったっていうのはありました。

1983年初めて中国に配属されて、85年に北京事務所の補佐役として3ヶ月ぐらい長期出張をさせてもらいました。そのあと香港に駐在したりしていました。ここからは当然中国に近くなってきますから、ちょうど私が香港に行った年ぐらいに広東省にカシオの工場を作った。そこで私は香港から販売として移ったっていう経緯があります。それから中国関係の仕事をしているっていうのはありますね。

―中国に行った時、どうやって当地の人と交流しましたか?また、難しいことはどうやって克服しましたか?

公式なところでは通訳ありの会話になりますけど、やっぱりそういう仕事以外のところでは、まず出歩いて、カタコトでやりとりを試みて、ということの繰り返しだったんじゃないですかね。

コミュニケーションギャップがある時っていうのは、もっている情報が違うからというのが基本的な理由ですよね。自分が知っていることと、その人が知っていることが違うだからそれに基づいて出てくる言葉が違うそこでギャップが生まれます。それは言い方を変えると、相手の知っていることを自分も知れば、自分の言うことも相手に近づくということです。それは逆も然りで自分の知っていることを相手に伝えれば、相手も同じようなところに近づいてくるわけです。だから、違うという問題を考えるよりは、持っている情報がどう違うのかを考えて、その情報を埋め合う言い方変えると自分の知っていることを相手に伝え合う。相手が知っていることとか、困っていることをできるだけ知るということだと思いますね。それは日本人でもありますけど、海外だともっと大きいわけです。

リモートで出張とか減っていると思いますけど、やっぱり現場に行くっていうのがとっても大切だと思いますね。現場に行ったらお客さんの部署に行って商談をするだけじゃなくて、街に出てスーパーに行って何が売っているかとか、本屋にどんな本が売っているかとか、レストランに行って何食っているのかとか。また、相手の家を訪問させてもらったり、どういう暮らしをしているかを調べたりとかね。そうすると目に入ってくるものがあるわけじゃないですか。家族の写真が貼ってあれば、家族に対する気持ちの重さとか、とにかくこっちから相手のことを理解すること、相手の置かれている環境を理解するそれが大切だなと思いましたね。だからなるべく出張に行くと夜も出歩いて、ふらふら情報を足で稼ぎます

―中国で1番印象に残ってることは何ですか? 

カシオは結構教育に関連する商品を開発しています。例えば数学で使われる、関数電卓とか、電子ピアノだとか、教育の中に結構入ってくるわけですよね。でも教育というのは、その国の中で1番大切なことだから、防護壁が高いですよね。第三者が入るってことには慎重なんです。その中ではカシオは幸い中国の教育部(日本で言う文科省)から最初の関数電卓で認められたことから始まって、その後も結構入れていただきました。

私も例えば電子辞書の販売とかでは、中国日本語教育学会の方たちとは、仲良くさせていただきました。2011年に中国で日本語教育の世界大会があったことがあります。その時に特別貢献賞という立派な賞をいただいたことがあるんですよ。やっぱり我々はもちろん電子辞書を売るために、あるいは製品を良くするために中国日本語教育学会の先生達とのお付き合いをしたのは確かなんですけど、同時に先生たちがやりたいことをスポンサーしていったわけなんです。シンポジウムやコンテストをスポンサーしたりね。だから、Win Winの関係っていうのを築かせていただいて、その先生たちが評価してくださったところは大きいかな。今でもその先生たちとお付き合いあります。

でもやっぱり1番大きかったのは自分のチームのスタッフです。やっぱり彼らにはいっぱい助けてもらいましたからね。上海に行った時は最初15人のチームだった。電卓を売る仕事をして。最終的に10年後、私が帰ってくる時には、直属の部下は約10倍の140人に増えました。そこはみんながほんとに頑張ってくれて、その人達とは家族的な感覚でしたね。

―中国のどんなところが奥深いですか?

まず広い、地理的にも広いし、地域ごとの違いがあるんです。どこかヶ所にヒットしたからといって、中国全土に響くわけではないです。例えばいくら北京で有名になったとしても、南関東省の人は何も知らないましては四川省、西安とかっていう人は全然知らないということは全土にそれを広めるには、同じことを違う土地で何回もやる必要があるんです。そうするとそれなりに成果出てくる。どれだけそれをやれたかっていう競争に勝つかどうかに関わってくるわけなんですよね。そうすると明らかに知名度とか売り上げとかにどんどん差がついていく。

そういうふうにやっているとやはり人間関係が関わってくる。その地域での提供が期待できる人とどれだけ結びつけるか、信頼関係だとか。よく中国って人間関係を大切にするって言いますけど、その大切さっていうのは、人と人との個人的なつながりの部分が結構大きい。日本だとどこの会社の誰さんってなるじゃないですか。例えばカシオの吉田さん。カシオでなくなった場合の単なる吉田さんは、カシオの吉田さんと比べると外からの見られ方、価値がゴーンと変わるんですよね。けど、中国の場合はどっちかっていうと吉田さんの部分が結構高くって、吉田さんだったら話をしましょうみたいなね。そういうところっていうのは、日本より強いと思うんです。それっていうのは、中国の歴史としてね、何千年の政権が入れ替わって、とかそういうのがある中で、組織というよりは個人の信義が大切だってことをみんな学んでると思うんですよ。だから信頼できる人と付き合っていたいっていうのはありますよね。そういうことを含めて奥深いです。

インタビューに答える吉田さん

新しいことに挑戦する意義

―いつも前向きな吉田さんですが、辛かったことはありますか?

ここ数年が苦しかったです。行政書士の法律の勉強は、ほんとに頭が痛かったです。一年に一回しかないですから、国家試験っていうのはね。ダメだとまた一年でしょう。模擬試験全然ダメだし、その時は本当に苦しかったです。まさしく受験勉強です。大学受験はまだ何校も受験できるじゃないですか。国家試験は一回しかないですし、丸バツ問題じゃないですからね。なかなか精神的には、落ちたら来年どうしようかなって、今考えてもしょうがないから頑張るしかないというかね。不安でしたね。

でも受かってみると、やっぱり色々な人と出会うわけですから。合格同期というものですけど、まあ大体私が一番年上ですけどね。ジジィの新人だけど同期としてよろしくとか言っています。資格とって一番いいことは、友たちが増えることですよ。これは私の実感です。日本語教師の資格を取った時、一緒に学んだ人たちとの繋がりっていうのがあるんですよ。また、それを通して知り合った先生方の繋がりもある。それは資格を取ったからできた繋がりですよね。ガイドの資格を取ったから今もガイドの仕事を頑張っている人たちとか、そうしたらいっぱい繋がりがあるんです。資格取ると今にない人間関係がふっと増えるわけですね。飲み会で知り合ったのはなかなか長く続かないですけど、目指して何か一緒に頑張ったりした人たちはお互いに困っているから、助け合おうとするし、ある程度の信頼があります。合格した同志なので尊敬しあえますし。

―定年退職後もなぜそのように努力を続けるのですか? 

社会の中で何か役割を持つためですね。どちらかというと自分のためです。人のためというよりは、やっぱり自分は自分の中で何か役割を持っていないと逆に寂しくなってしまうのだなと思いました。という自分主体の話なんです。相手主体じゃなくてね。それが正直なところです。そういうことは、会社の忙しさから解き放たれた役職定年の時すごく感じました。忙しかった時は、考える必要なかったですよね。 

今後の目標

―カシオを退社されてからは、カシオでの国際的な職務経験を生かすために、猛勉強をして行政書士の資格を取得するなど、果敢に活動を続けているとお聞きましたが、今後目標にされていることはなんですか?

今のところ行政書士としていかに、日本に住む外国人の方の支援ができる幅を広げていくかですね。やっぱり行政書士って一番わかりやすいのは居留証の取得とか書き替えとか、更新とか、そういうのですね。それが入り口です。そして取得した方が、日本に住んでいる中では、いろんなライフステージがありますよね。例えば留学生とか、就職する、結婚するとか、もしかしたら起業する、家を買う、さらにはまあ、相続やら。そういう時に、やはり、日本人でも結構いろんな行政手続きとか本人ではやりにくいわけで、だからそういう行政書士の資格があるんですけど。やっぱり外国の方はもっと難しいですよね。日本の行政は非常に複雑な要求とかありますから。そういうのをサポートしていけるようになりたいと思っています。ただそれには非常に幅が広い話なので、少しずつ信頼関係を深めていって、「あ、吉田さんに頼めば大丈夫だな」っていう、そう思ってもらえる人を一人ずつ増やしていく。だから日本にいらっしゃる間はずっと何かあればお助けしますよっていうような人を一人ずつ増やしていきたいなと思っています。  

(インタビュー:2022年5月)

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