マイノリティで芽生えるもの

武蔵野美術大学

マイノリティで芽生えるもの

PEOPLEこの人に取材しました!

アバス・マリさん

静岡文化芸術大学3年

アバス・マリさんは、12歳のとき、言葉や文化も知らない状態でフィリピンから来日した。日本人の父と、フィリピン人の母をもつ。現在タガログ語とビサヤ語と英語と日本語ができる。
中学一年生の9月に日本の学校へ編入した彼女は、12歳から編入するまでの間もフィリピノナガイサで勉強をしていた。その後、日本で中学校、高校を経て、現在は、静岡文化芸術大学の国際文化学科に進学し、自分の経験を基に社会問題について積極的に学んでいる。

<フィリピノナガイサ>
静岡県浜松市にあるフィリピン支援団体。フィリピン人のための日本語教室、フィリピン人のこどもための教育支援、フィリピン人の日本での生活支援、国際交流活動事業等の活動を行っている。

フィリピノナガイサとの出会い

―アバスさんは日本語をフィリピノナガイサで学ばれたとお聞きしました。フィリピノナガイサについて教えてください。

わたしは、12歳のとき、お母さんと妹と来日しました。そのとき、お父さんが教育委員会に日本語が勉強できるところがないかと尋ねて紹介されたのが、フィリピノナガイサです。そこで中学校に入学する前に3ヶ月間勉強しました。中学校の間は土曜日だけずっと行っていました。日本語の勉強と学校の課題はそこで勉強していました。フィリピノナガイサでは勉強だけじゃなく、家族のことや友達のことも相談するようになって、そのおかげで大事な自分の居場所になっていきました。

高校生からはフィリピノナガイサでボランティアとして教える側に回り、そして今も続けています。自分が教える立場になって子供たちの悩みを聞くときは、自分の過去と重ねて、確かにわたしもこんなことあったなあって思ったりします。苦労があった分、わたしも乗り越えたよと生徒に対して教えることができています。

大学を卒業した後もボランティアを続けたい気持ちもあるけど、どうするか迷っています。わたしの後に入ってきた新しい子たちに受け継いでもらおうという気持ちもありますね。

恩師からの支え

―アバスさんがフィリピノナガイサに入った時に担当してくださった先生はどのような方だったのですか。

わたしのフィリピノナガイサでの恩師は日本人ですが、フィリピンに行ったことがあり、フィリピンと縁があったようです。その恩師がわたしを3年間担当してくれました。わたしが中学生の時、勉強のやる気がなくて。でもその恩師が「せめて高校は行けや!!」って言ってくれました。高校生になると、わたし、結構勉強できるかも、いけるじゃん!と調子に乗っていたら恩師が「大学行けばいいじゃん!!」って言ってくれました。言われた通りにやっているだけだったけど、恩師が信じてくれたからこそできたことです。恩師はわたしにいい影響を与えてくれました。

恩師とアバスさん

わたしだけのことかもしれないけれど、日本人が外国人に対して「もっとできるよ」って励ましてくれることは、やる気になります。わたしもっとできるって思えます。やっぱり、恩師とか知らない人とかが言ってくれたら、家族に励まされるのとは違うやる気になります。友達や家族としての関係で応援するっていうわけではなく、わたしの実力を見て判断して背中を押してくれたのだと感じます。

フィリピノナガイサで活動する時、恩師のわたしにしてくれたような対応ができるように意識しています。12月になると外国人特別枠*を受けて高校に入る人もいるので、その子たちの試験内容の作文の添削や面接の手助けをしています。恩師がしてくれていたみたいな手助けになっているといいなと思います。

*外国人特別枠は公立高校入試において特定の外国人生徒に用意された入学枠で、一般枠入試とは異なる試験方法で生徒を選抜し、入学後も必要な教育支援を提供するものである。

ただ、今後も手助けをしていきたいと考えていますが、今、ちょうど就活中で迷っています。このまま日本にいて活動を続けるのも、大学の勉強を活かして海外で活動するのもいいかなと思います。でも今は、なんとかその2つを組み合わせられたらいいなと思っています。人の助けにもなりながら、自分が大学で学んだことも活かして活動ができるような状態になれることが理想ですね。

大学で学んでいること

―国際文化学科に進まれたことはどんな経緯ですか。

元々、化学が好きでフィリピンにいた時は薬剤師になりたかったけど、日本に来て、大学受験もして、大学で何年間かの勉強もしてって考えたらちょっとわたしには無理だと思いました。なので、その薬剤師の夢を諦めて国際文化学科に来ました。高校2年生の時に英検をとったとき、嬉しかった記憶があって、今自分ができる言語が活かせるのは国際関係かなって。

大学に通うようになって、国際文化学科での勉強も大変ですが、レポートを書くときに日本語がネイティブではないので大変です。学術的なことをいきなり書いてと言われても、いつも1週間かかるので苦労します。一方でより意識するようになったのは社会の問題です。特にアメリカとかでアジアンヘイトなどが流行っていて、そういうことに気づくようになりました。大学生になってから社会問題に対する意識が高まって、それを改善しようとする感情も気持ちも強くなったかなと思います。なので、大学生になって文化とか勉強とか、そういうものを同時進行で両方学んで行っています。

大学の友だちとアバスさん(右)

―今後、大学でもっと学びたいことはなんですか?

今は多文化共生についてもっと学びたいかな。大学で「国際労働力移動論」という授業があって、すごく興味深いです。差別などの社会問題について、そこでわかる。たとえば、技能実習生は3年間など短い契約期間で、いろんな問題があります。技能実習とは名ばかりで安い給料で雇える労働力というイメージが強くて、労働環境の悪いところも多いです。それは駄目だと、働いてもらっているからフェアな取引をするべきだという議論があります。

また、日本は移民政策がないのですが、少子高齢化が進み、日本の政府は移民政策と呼ばないで外国人を呼び込もうとしています。それで、技能実習生などを海外から呼び込もうと言う人もいれば、全然外国人はいらないから母国に帰れというような運動もあります。そういう外国人に対する問題を勉強しています。

他には移民とか国際機関、SDGsやフェアトレードなどにも興味があります。そういう社会問題のことを引き続き勉強していきたいですね。あとは国際協力とかにも関心がある。わたしが国際関係のことを学びたいと思ったのは、多文化共生と移民については自分の経験があるし、個人的な経験を軸にして勉強したいと思ったからです。SDGsやフェアトレードについてはわたしのゼミの先生がフェアトレードについて扱っていたので。最初は単に自分は英語が得意だから国際系に関心があったんだけど、学ぶうちにSDGsとか様々な問題を知っていきました。他にも、わたしは結構女性の権力の問題にも積極的で、男性ができていることは、女性もできるよと伝えたいです。制限なしで女性が活動できればいいなってと思って。そういう思いが強くて。

―女性の権利関係について関心を持ったきっかけとなる自分の経験はありますか?

フィリピンの文化かな。フィリピンは、お父さんが絶対みたいな感じ。お父さんは絶対の存在でお母さんはそれを支える存在で。日本もまだそうかな。それはそれでいいけれど、フィリピンでは、シングルマザーがたくさんいて、わたしの周りにもたくさんいます。なんか、男のせいじゃなくて、男にがっかりしていた、みたいな。なんかそういう感情を抱いていた。女性ならこんなことできるのにーって。

マイノリティ経験について

―アバスさんのマイノリティ経験について教えてください。

日本に来て最初に感じたのが外国人みたいな顔をしているから、それに対する差別かな。外国人は一応日本の中ではマイノリティになるので。外国人ってだけでバイトでも変に踏み込まれたことを聞かれたりして。ここは外国人は駄目だよと言われたり、バイトをしても、どこの国の人ですか聞かれたり。別に聞かなくてもいいでしょうと思ったりしましたね。

就活においても、生まれは違うところだけど育ちは日本で日本の子どもたちと同じ経験、日本の文化の中で教育を受けてきている。でも外国人という点だけで採用されないっていうのは残念だなあと思います。少子高齢化が進んでいるなか、同じように戦力として扱ってほしいです。

―アバスさんの今後について教えてください。

わたしは今、日本で帰化しようとしています。就活でも、カタカナの名前というだけで不利になるので。帰化**したら国籍も変わるし、苗字とか名前を漢字にすることもできるから。そうしたら、少しでも不利なことが減らせるかなと考えています。

**外国籍を持つ方が日本国籍を取得すること。

子どもの頃のアバスさん

フィリピンの国籍がなくなってしまうことでフィリピンに自由に行き来することができなくなるなあと思ったけれど、それは多分書類上だけなので。自分の中のフィリピンである部分がなくなったっていうわけではないですから。お母さんはフィリピン人だからいつでも、フィリピンを感じられます。ただ、まだ日本に来てからフィリピンに帰っていないので、とても行きたいですね。

―フィリピンの経験とか、今の日本での経験の中で、そこの権利問題などに関心があるのですか?

そうそう。わたしとても社会問題とかに興味あって。掘り下げるほど、熱くなっちゃう。これは何とかできそうなのに!みたいな感じで、より良くしたいという気持ちが強いです。

小さい頃は全然そんなことを考えてなくてなかったのだけど、やっぱり、マイノリティの立場に立つことになったらそこで社会問題に対する意識が高まるかなと思いますね。マジョリティに置かれたら、そのマジョリティ社会で生活しているから、マジョリティ以外のことの何か社会問題とか考えない、そこで満足してしまうからね。

そのマジョリティの中で、一歩でもマイノリティの立場になるようなコミュニティに踏み出したら、自分もそうなったら何かこんなことあればいいのにみたいな自分で希望を持つことになるの。

マイノリティになることは、全く問題がないわけではない。でも、その中でより良い、こんなことすればより良くなるじゃんっていう考えが芽生えるかなと。そして、その芽生えをきっかけにできる。今から少しずつ自分のスケールを広げて行って、フィリピンだけでなく他の国でも活動し、社会の様々な問題も視野に入れて解決していきたいです。

(インタビュー:2022年6月)

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