多様性で撮る、多様性を撮る

武蔵野美術大学

多様性で撮る、多様性を撮る

PEOPLEこの人に取材しました!

小川 和也さん

映画監督、映像ディレクター

東京ビジュアルアーツ映画学科卒業後、アメリカのSchool of Visual Artsの監督コースに編入。5年間をアメリカで過ごした後、イタリア・トスカーナ地方のスベレートに移住。日本とイタリアがプロダクション、撮影地はパレスチナとイスラエル、そしてアラブ人、日本人、イスラエル人が出演のインターナショナル映画「ピンク・スバル」を制作した。「ピンク・スバル」を中心に、海外での撮影、移動の経験についてお話を伺った。

映画は総合芸術

Q:ある元映画監督の方が、「監督にとって一番大事なのはストーリーでもチームの仕組みでもなく、実はお金です」と言っていました。小川さんはどう思われますか?

映画でなくても何でもそうですよね。笑いが起きるような話なのかもしれないけど、ぼくはその答えは、面白いけど、ちょっとずるいなあと思います。何でぼくが映画作りが好きかっていう答え方でもいいですか? 映画は総合芸術ってよく言いますよね。映画はストーリーを考えて脚本を書きます。そして今度は撮影して、最後に編集します。この3つのプロセスが全く違うのが楽しい。書くことは、脚本家と一緒に書いたり、自分で書いたり、シチュエーションは違うにしてもひたすら地味な作業ですよね。撮影は逆に体を動かす作業になる。現場で実際に人間がそこにいて、カメラマンに色々言って役者さんにも色々言って、問題が起きればみんなで走ることもあります。3つ目の編集はものを書く作業に少し似ているけど、ものを書くのと違って既にある素材をくっつける。全然違う3つのプロセスが重なって映画になるというのがすごく好きです。有名な映画監督に何が一番大切ですかと聞くと、脚本とか編集って言いますけど、ぼくは全部大切だと思っています。でも、もちろんお金も大切だと思いますよ。

Q:アメリカから日本に帰った後、2005年にイタリアへ行かれていますね。そのきっかけと、その際イタリア語の勉強をしたかをお聞きしたいです。

イタリアに行くきっかけになったのは、縁があったからなんですね。知人からある「おじさま」を紹介されました。日本車って世界的に有名でしょ。でも、実は、日本の昔の車って結構ヨーロッパ人がデザインしていることが多いんですね。そのおじさまは、ヨーロッパのデザイナーと日本の自動車会社をつなげる橋渡しをやっていた方なんです。そのおじさまが、ワイン農園をやってて、そこで日本の「引きこもり」の子たちの面倒をみるということをやっていたんですね。そこでなにか面白い映像が撮れるんじゃないのかっていう漠然とした話で、1回そのおじさまに日本で会ったんです。そしたらすごく意気投合しちゃって、とりあえず1年行こうかなって思ったら、居心地が良くて、映画も作ることになって、結局4年いましたね。

イタリア語の勉強は一切しないで行きました。原始人が棒を掴んで、これって手で持って物を叩くんだって体で覚えて行く感じ? そう言う感じでイタリア語を覚えていきました。さっき言ったように農園にいたから、農夫のおじさんとおばさんと一緒に仕事してたんですよ。ワイン農園だから、ブドウの収穫とかも手伝っていたんですね。朝早く5時とか6時に起きて、農夫のおじさんたちと仕事しているんですけど、彼ら全く英語もしゃべれないんです。ヨーロッパ人って思った以上に英語をしゃべれなくて、しかもすごい田舎だったから、びっくりするぐらい英語を知らない老人と、一緒に農作業してるときに、もうカタコトで色々しゃべってるうちにしゃべれるようになっていったんですよ。だからイタリア人を見つけると絶対ずっとしゃべってます。英語よりもイタリア語の方がしゃべるのが大好き。

さっき言った、農園のオーナーさんの息子さんたちがやっている会社がトリノにあって、彼らは撮影のコーディネーションとか、あとF1選手とかサッカー選手のマネージメントとかをやっていて、色々映像の仕事を彼らからもらうときがあったので、たまにトリノに映像の仕事をしに行ったりしていました。

ぼくは実家がお風呂屋さんだから自分の家に人がいっぱい集まっていたんですよね。ちっちゃい頃から近所のおじさんとか、お客さんとコミュニケーションを取ったりするじゃないですか。いろんな人とコミュニケーションを取るっていうのは昔からしていましたね。それでイタリアのトスカーナって、ヨーロッパの人たちが車で遊びに来るんです。それでイタリア語がしゃべれないお客さんがワイン農園の中にあるワインショップに来ます。そうすると英語しゃべれるからちょっとお客さんの対応してって、ぼくによく電話がかかってきたんですよ。そうするとね、ぼくすごいワイン売るんですよ。だから、あなたお客さんと話すの得意ねって、よく褒められました。

Q:移動の経験をもとに、小川さんの考える家族のあり方についてお聞きしたいです。

アメリカと日本で比較した場合、例えば日本人って、家族サービスって言い方をするじゃないですか。あの概念って、アメリカ人は多分理解できるんですよね。家族サービスって要はお休みの日になるべく家族と過ごすみたいことじゃないですか。イタリア人はその言葉の意味を全く理解できないと思うんです。だって、家族のために仕事をしているのに、なんで休みの日に家族と過ごすことが、サービスになるんでしょうか。家族と過ごすことは当たり前なのに、何その言い方って、イタリア人からしてみると全然意味がわからない。多分家族サービスという言葉って、どこかで仕事が中心になってしまっているんですよね。でもそれって、本末転倒で、生きるために仕事をしているわけじゃないですか。だとしたら、家族と過ごすために仕事しているという言い方もできるんじゃないでしょうか。それなのに、休日に家族と過ごすことがサービスになっちゃうのっておかしな話ですよね。
イタリアにいるときに、そのような家族との絆や、家族と仕事との向き合い方を知って、こういう生き方でぼくも生きたいと思いました。自分の家族を日本で持ったときに、イタリアから学んだ家族の在り方を自分なりに実践できているなっていうのはありますね。だから家族サービスではなくて仕事サービスって言わなきゃダメですね。

「ピンク・スバル」について

Q:映画「ピンク・スバル」*(2011年公開・配給:レボリューション、アップリンク)を撮ろうと思った経緯を教えてください。

*2011年公開。配給:レボリューション、アップリンク。この映画では、ある男がようやく手に入れた愛車を盗まれ、その行方を追って主人公と仲間たちが東奔西走する姿をユーモアたっぷりに、イスラエル、パレスチナのリアルでおかしな日常が描かれている。

イタリアのスベレートで2006年にパレスチナ人の役者さんに出会ったんです。それで、意気投合して、彼にパレスチナに年末戻るから、一緒に来る?って言われてついて行ったんです。パレスチナってもうずっと戦争していて、恐ろしいイメージがあるじゃないですか。10日間ぐらいで2回爆発音を聞いたんですよ。でも、その爆発音は、両方とも結婚式の花火の音でした。彼らは結婚式を家でするから、みんなでパーティーして家庭用の打ち上げ花火みたいなものをボンボンあげるんですよ、結構大きいものを。ぼくがパレスチナで聞いた爆発音って幸せな音だなと思って、この雰囲気をちょっと映画にしたいと思ったんです。

「ピンク・スバル」の撮影

Q:撮影で大変だったことはありましたか?

日本とイタリアとイスラエルとパレスチナ、4つの国がスタッフと役者に混ざっているんですよ。イタリア人ってね、陽気なんだけど保守的なんです。だから食べ物とか別にまずいわけじゃないのに、自分が食べ慣れていないものって食べなかったりするんですよ。撮影するときにうまく撮影場所が決まらないってことがあるけど、それでも結局人とのコミュニケーションで決めるわけじゃないですか。そういうことはどこにでもあることだと思うんですけど、4つの国の人が、しかも長い期間撮影しているから、人はわがままを言い始めるんですよね。それが大変でした。

イタリア人って「やってらんないよ」っていう意味のジェスチャーがあるんです。このジェスチャーってヨーロッパで結構あるんですけど、イスラエル人とパレスチナ人はこのジェスチャーを「ストップ」って意味で使うんですよ。イタリア人とイスラエル人が言い合いしているときにイタリア人がそれを使ったら、パレスチナ人とイスラエル人が「止まれ」って言われてると思ってピッて止まるのよ。それがおかしくて。そういうのは笑えるから良いんだけど、映画の撮影はずーっと大変なのが当たり前ですね。

スタッフと映像を確認する小川さん

Q:「ピンク・スバル」の市場のシーン*はリアリティをすごく感じました。現地のリサーチはどのようにされましたか?

*「ピンク・スバル」の市場のシーンでは、様々な工芸品、果物が売り買いされ、人々の生活がリアルに映され、観客はまるでその場にいるかのように感じる。

最初に行った時に映画を作ろうと思って、次に行った時に色々リサーチをしました。イスラエル、パレスチナってすごく小さい国で、そこがニューヨークに迫るぐらい人種のるつぼなんです。まずイスラエル人とパレスチナ人って大きく2つに分かれているし、パレスチナ人もすごく血が混ざってたりしているんですよね。ヨーロッパの血が少し混ざっていて、目の青いパレスチナ人の子とかもいます。小さい国で色んな人種がいて、色んな宗教があるから、1つ1つのコミュニティーがすごく小さくて、そこには知り合いがいないとなかなか入れない。それでさっき言ったパレスチナ人の役者の繋がりで、色んな人を紹介してもらって、彼らのおかげでコミュニティーに入ることができました。いきなり行ったら、よく分からない日本人が来たけど何なのってなるところを、彼っていう間に入っている人がいたおかげで、すごく仲良くなれたからこそ、色々なところで撮影できました。人と人との繋がりがないとなかなか撮影できない場所で、全体的にそういうものにすごく助けられた撮影でしたね。

Q:「ピンク・スバル」の中でもイタリアからの影響を受けた家族の繋がり、結婚式という家族同士の繋がる話が印象的でしたね。

イスラエル、パレスチナは、家で結婚式をするんです。それが日本の昔の家族の感じに似ているんじゃないかと思ったんですよ。自分が子どもの頃は、今と比べたら、正月に親戚が何十倍も集まっていました。それから日本で有名なスバルが走っていたり、昔よく目にしたSEIKOの時計が壁にかかっているのが目に入って、昭和の日本への懐かしさと家族が昔よく集まっていたことをしみじみ感じて、家族のシーンはそういったことを考えながら撮りました。

多文化共生という考え方

Q:作品を作るときにどのような所からアイデアを得ますか?

今進めているプロジェクトに関してどういう風にアイデアが生まれたかということでもいいですか?

ニューヨークやイタリアへ行った後、実家の鶴見に戻ると外国人がとても増えていました。そこで自分の地元が多文化共生だと思いました。日本の人口はこれからどんどん減って、移民が増えていくと思っています。今の子どもたちには、それが当たり前になっていくでしょう。そこで、日本には今でも移民の人が多くいるということを知らせるような、多文化共生のドキュメンタリーを作ろうと思っています。

Q:大学生に向けてアドバイスをください。

海外に行って外から日本を見ることはすごく大事だと思うけれど、あまりやりたくないことはやらない方がいいんじゃないかとも正直思います。だから自分がコンフォータブルに思えることをするのが1番いいし、海外に行くのは怖いけど心の中では行きたいと思っているなら絶対に行った方がいいし、飛行機に乗るのも嫌で外国のご飯も食べたくないなら無理してそれをしない方がいいと思います。

 

(インタビュー:2021年5月)

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