私が移住できたのは❝臆病❞だったから

武蔵野美術大学

私が移住できたのは❝臆病❞だったから

PEOPLEこの人に取材しました!

澤村信哉さん

ハウスオブジョイ 事務局⻑・副院⻑

フィリピンで⽇本語を学ぶ⼦どもたちの教育環境を⽬の当たりにし⽇本語教師になる道へ進み、8年間フィリピンで、2年間ブルガリアで⽇本語教師として働く。2008 年から、⼦どもの⾃⽴⽀援や就学⽀援のためのプロジェクトを⼿掛ける児童養護施設ハウスオブジョイの運営に携わり⼦どもたちと⼀緒に暮らしている。
フィリピンという地で⼦どもと関わる澤村さんがどのような⼦どもだったのか、また移住という⼤きな決断によって変わったことについてお聞きしました。

扱いづらい⼦ども!?

澤村さんの幼少期 真ん中が澤村さんで一緒に写っている方が兄と祖父

会社員の⽗親と専業主婦の⺟親、兄と私で千葉県の⽥舎で暮らしていました。今思うと幼少期の私は⼤⼈から⾒ると扱いづらい⼦どもだったと思います。理屈っぽいんですよ。うちの⽗親がバリバリ理系の⼈だったので、家の中のルールが、論理至上主義なところがあったんです。そんな家庭で育ったものですから、理屈で⼤⼈を試すような⼦どもでした。今でも私は理屈っぽいですが、その後生きていく中で、いつも論理とか合理的であることばかりが役に⽴つ訳ではないっていうのを経験しましてね。特にこのフィリピンの⽥舎なんかで暮らしてると、⼈情や⾵習の⽅が⼤事な時がいっぱいあるんです。なので、そういうところはフィリピンに住んだおかげで折り合いをつけて、⼈に理屈を押し付けないようになりました。

フィリピンへの恩返し

楽器演奏は特技に

中学⽣の頃に親に連れていかれていたキリスト教の教会で出会ったフィリピンの⼈たちが、全然違う世界があるということ、そしてそれが⾃分と繋がるということを明確に⾒せてくれたことにとても恩を感じています。中学は喧嘩が強い奴が偉いっていう考えのヤンキーだらけの学校で、いつイジメの標的になってもおかしくない状況でした。体の⼩さい私は、細⼼の注意を払いビクビク暮らしていました。そんな時に教会で、不法就労で⽇本に来ているようなフィリピンの⼈たちに出会いました。学校にいる不良とは⽐べものにならないくらいアウトローな⼈たちです。しかし、彼らはみんなで教会に集まって楽しくパーティーをし、そこにいた⽇本⼈中学⽣の私をその輪にいれてくれたんです。ギター教えてやるよとか、ダンス教えてやるよと。それに何か救われたんですよね。世界には悪い⼈たちがたくさんいて、ビクビクとサバイブしていかなきゃいけないんだと恐れていた所に、全然いけるじゃんっていうのを教えてくれた。ギターを教えてもらったこと、海外に興味をわかせてくれたことも⼤きいです。
あとは⺟親からの教えも今に影響していると思います。⺟親がキリスト教信仰が深く、⼦どもの頃から繰り返し「あんたは⾊々できるんだから、それはちゃんと⼈のために使わなきゃダメよ。」と⾔われて育てられたんです。これは、聖書の中に神様からお⾦をもらうお話があって、お⾦を⼤事にとっておいた⼈は神に叱られ、有効に使った⼈は褒められるんです。このお話は、神から与えられた能⼒や才能というのは、⼈が喜ぶ形で使わなきゃダメという教えで、その考えを⺟親から刷り込まれて育ちました。

考えが広がった⼤学時代

私は、横浜国⽴⼤学に通っていて最初の2年間は寮に住んでいました。寮生の7 割が留学⽣で、専攻も途中で⽇本語教育に変えたので留学⽣と知り合う機会は多かったです。それまで各国に対してもっていたステレオタイプが払拭された時期で⾯⽩かったです。
横浜国⽴⼤学に留学⽣として来ている学⽣は各国の超エリートでした。そういう⼈と関わっていく中で、アフリカは途上国だとか、この国は貧しいといった⼀⾯的なものではなく、どんな国にもこういうスーパーエリートはいるんだな、と痛感しました。逆⽴ちしても敵わないぐらい頭のいいような⼈がゴロゴロいたんですよ。

⽇本語教師の道へ

⼤学⽣になりフィリピンへの恩返しがしたいと思い、⾃分には何ができるかを考えたところからフィリピンに移住することを本格的に考え始めるようになっていったんだと思います。ただ、⼤学⽣ぐらいの頃はまだ永久に海外で暮らすことは考えてなかったです。当時は、⽇本語教育を学び留学⽣とたくさん接するようになったこともあり、親の都合で⽇本に来た外国籍の⼦の⽇本語教育に関⼼がありました。そして将来的にはその⼦たちに関わる職に就こうと思ってたんです。なので 20 代の間はフィリピンへの恩返しと⽇本語教師になるためのスキルを積むために、フィリピンをはじめ、インドシナ、さらに南⽶の三箇所を 3、4 年ずつぐらい住んで、各国の⾔語を覚えて 30 歳くらいで⽇本に帰ってきて教員採⽤試験を受け、⽇本に来ている外国の⼦ども達のサポートをする⽴場になろうと思っていました。

確信に変わったフィリピンへの移住

澤村さんとフィリピンの方々

⽇本語教師の資格を取った後フィリピンで⽇本語教師として働いていたのですが、任せてもらえる仕事の幅がどんどん増えていったんです。最初はただ⾔われるがまま教えるだけだったのが何を教えるかまで考えて良くなったり、教科書を作ってと⾔われたり、他の先⽣たちに⽇本語の指導をしたり、挙げ句の果てには⼤学を作るからそこのカリキュラムを作ってほしいと頼まれたり…(笑)、⽇本語教育の専⾨家として頼られる⽴場にどんどんなっていったんです。そんな経験なかなかできないし、こちらも勉強になるし、⼈脈も広がる。すごいやりがいがあったんです。そのやりがいがこのままフィリピンにいようかなぁと思った理由の第⼀です。
もう⼀つが経済的な理由です。海外で⽇本語教師をやるというのは全然お⾦にならないんですよ。だからちょくちょく⽇本に出稼ぎに⾏って、フィリピンでは薄給の⽇本語教師をやって凌いでいこうと考えていたら、⽇本での似顔絵描きが思いの外稼げるようになって「あれ?俺もうこれで⼀⽣やってけるんじゃね?」と思ったんです。フィリピンに来て3年か4年⽬ぐらいのことです。その時に明確に移住という気持ちになったんだと思います。

成功の秘訣はセルフプロデュース

私の画⼒は私よりも上⼿い⼈がいくらでも⾒つかるぐらいの画⼒なんですけど、⼗分間、初めて会った⼈と、楽しくおしゃべりをしながら、その⼈の顔をカラーで描く、という感じなら⾃信があるんです。「絵がまあまあ上⼿い」にいかに付加価値をつけられるか、通りかかる⼈にいかに興味を持ってもらえるかが⼤事な訳で、私はやってみたらそれが得意だったんですね。私は画⼒⼀本で勝負したというよりは他のいろんなことで付加価値をつけて商品化したんです。セルフプロデュース野郎ですね、私は(笑)。
性格⾯でもそうです。昔は「こういうキャラで⾃分はやっていくんだ」と、多少なり演じている部分は強かったんだと思います。演じている⾃分と素の⾃分との葛藤も⼆⼗代の最初の頃はあったんですけど、今では⾃然になっています。よくプロデュースした⾃分は偽りの⾃分だからそういうのはダメだと聞きますが、私はそうは思わないです。本当の⾃分というのがもともとある訳じゃなくて⾃分がこうなりたいと思って、頑張って、周りの⼈とぶつかりながらできていく外側の⾃分の⽅が、⼼の奥底にある⾒たこともない本当の⾃分なんてものより全然⼤事なんじゃないの?と私は思っています。

⾃分の能⼒をフル活⽤できる場を求めて

ものの考え⽅が極端なのでフィリピンで 7、8 年が経った頃、⽇本語教師は⼀⽣の仕事ではないな、と少し感じ始めたんです。⾃分は「神からもらったお金」をフル活⽤できてないなっていう感覚がどこかにあって、⾃分の能⼒をフル活⽤できる場を探したい気持ちがすごく強くなってきまして。そんな中フィリピンの⽇本語教育の現場から離れて⽇本で考える時間をとったら、⾃分には何ができるのかをもうちょっと試したいという気持ちが湧いてきました。それでなるべくフィリピンに似てない全然違う国に⾏って⾃分を試したいという思いからブルガリアに⾏ったりもしました。
移住って⼤きな決断だと思います。だからこそ価値観をどこに置くかという部分が⼤事で、私は⾃分が持っている能⼒をフル活⽤できる場というのが価値判断の重要なところを占めているんです。だから今は本当に⾃分の能⼒をフル活⽤して孤児院の運営をしているなあと感じられて楽しいです。今、割と充実できているのでこの感じで今後もやっていきたいですが何か別の形を思いついて、後継者が⾒つかって「ここは彼等でやっていけるな」「⾃分にはもっと別のフィールドがあるな」と思ったらまたどこかに流れていく可能性はありますね。不可能に挑戦するという感じではなくて勝算を積み重ねて実現させるという感じで、チャレンジ精神というよりは⾃分を有効活⽤したいという感じですね。

不安があって当たり前

こんな暮らし⽅をしているので時々将来のことは不安じゃないのかと聞かれるんです。私もそこまで能天気ではないのでやっぱり将来に対する不安はあります。フィリピンで永住すると決めた時にも、ブルガリアに⾏く時にも、ブルガリアの仕事を辞めてフィリピンに戻った時にもあったし、今この瞬間にも将来の不安というのはあります。だけど例えば私が⽇本の企業で働いていたとして、将来への不安はないのかと⾔われたら私はあると思うんです。すべてが思い通りになる国や場所、ライフスタイルはないですし、将来に不安がない⼈なんて私は⾒たことがないです。⾊々な種類の不安や不快感があってどれが⾃分に耐えられるものなのかを考えることが⼤事なんです。「これは意外と我慢できる」というものと「これは絶対我慢できない」っていうものを考えた結果フィリピンのライフスタイルは私に合っていたんですね。

臆病だからこその勝算

私は臆病なんです。勝算があるからやっている。勝算がないことはやらない。だから移住についても、裸⼀貫で挑戦するみたいなタイプに思われることが結構多いですけど、実は私はそうではないです。似顔絵描きである程度稼げるとか、⼦どもの頃から「⼼の広い⼈たちがたくさん集まったコミュニティ」である教会とコネクションがあるとか、⾃分がいろんなことをやった結果としてコネクションを作れたのが勝算に繋がるわけです。これならなんとかなりそうだなという計算ができる、だから勝算の上でやっている、何もないところに勇気を持って⾶び込んだみたいなストーリーではないです、実は。

⼈に頼ることは楽しいし、みんなが楽しい

澤村さんとハウスオブジョイの子供達

⼤袈裟に⾔うと、移住によって「⼈に頼ることは楽しいし、みんなが楽しい」という感覚を持てるようになりました。海外で暮らす上で、そしていろんな⼈と出会い孤児院を運営していく上で、⼈に頼るってことはそんなに悪いことでもないし頼られた⼈って喜んでいるじゃん、私も誰かに頼られたら嬉しいっていうような、根本的にこの頼るってことについて勘違いしていたなあっていうのを思うようになりました。正しい頼り⽅、適切な頼り⽅をすると、相⼿とすごく仲良くなれてしかも喜んでくれるっていう形があるんだっていうのに気づかされたという感じです。これ悪いことじゃないよね、いいよね、むしろっていうふうに思います。
例えば、ハウスオブジョイで⼤⼈になって 18 歳になったらうちを出て、うまくいけば就職して結婚とかもして⼦どももできていって暮らしていくようになるわけですけれど、みんながみんな順⾵満帆に⾏くわけじゃなくて、いろんなトラブルがあって苦労する⼦もたくさんいます。そういう⼦たちが時々、頼ってくるんですよ、うちに。その時頼ってくれたっていうのがすごい嬉しく思うんです。こういう経験が「⼈に頼ることは楽しいし、みんなが楽しい」ということを証明していると私は勝⼿に思っています。このことは移住したからこその発⾒で、⽇本は「⼈に頼るのはいけません、⾃⽴しなさい」っていうのが⼤事なモラルのトップランクにきている国だと思うんですよ。その中で私も育ったんでその気持ち強かったですけど、⼈が頼り合うのが当たり前な国に来て⻑く暮らしていることでそこは本当⼤きく変わりましたね。

☆下のサイトにも澤村さんのインタビュー記事が掲載されています。
https://asenavi.com/archives/15140

(インタビュー:2020年6月)

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