生きることは「学ぶ」こと

武蔵野美術大学

生きることは「学ぶ」こと

PEOPLEこの人に取材しました!

鬼一二三(おに ひふみ)さん

一二三日本語教室主宰

「移住」と聞いて誰しも目的は何だったのか考えるだろう。夢を追う為、成長する為。鬼さんの移住は「この為に」ではなく、幼い頃からどこにいても好奇心を持ち、置かれた環境で勉強し続けた彼女の自然な流れとも言うべき人生選択であった。その先で出会うあたたかい交流や本当に大切なものとは何か、お話を伺った。

〈プロフィール〉
1964年東京都生まれ。1995年カンボジア王国シェムリアップ州にて一二三日本語教室、123図書館を開設。2014年度に公益財団法人社会貢献支援財団より社会貢献者表彰を、2017年に公益社団法人日本看護協会よりヘルシーソサエティ賞を受賞。現在も日本語教育から人材育成まで幅広い活動を続けている。

目の前のことにチャレンジを続けたら、いつの間にか教育者に

なぜカンボジアで日本語教室を開かれることになったのですか?

私はね、日本語教師になろうと思ったことが一度もないんです。小学生の頃からいいお嫁さんになるのが夢でした。短大の家政学科で2年間すごく勉強して、とれる科目は全部とり、教員免許も取得。月曜の1限から土曜の最後まで、2年間で大学並みに117単位かな。多いでしょ?
結婚し、主人のJICAの仕事でケニアに移住しました。私がいたナイロビは、アフリカの中でも一番拓けていて日本人が1000人程いました。そこでは、大抵の外国人がケニア人のお手伝いさんを雇います。彼女達は住み込みで、一年間のうち一ヶ月だけ帰れるシステム。子どもは実家に預けるわけです。私には一歳になる前の息子がいて、うちのお手伝いさんにも子どもがいる。そういうのが結構ショックだった。それで市内に託児所を作り、お手伝いさんの子どもを預かっていつでも会いに行けることを考えていました。主人に「保育士の免許あるの?」「ありません」「じゃあ、勉強すれば?」と言われ、幼稚園教諭の勉強を始めました。
そのために、ケニアにいた92年から2010年まで私はずっと大学生だった。四年制の大学に行きたいという夢があり、玉川大学の通信コースの幼稚園教諭に申し込みました。幼稚園教諭の教員免許と大学卒業を目指していましたが、卒論のために帰国することができませんでした。結局、幼稚園の先生の資格だけ取得し、退学しました。そして、その後再入学して小学校の教員免許をとりました。そのときも卒業できなかったんですが、また再入学して今度は司書の免許をとったんです。それで晴れて2010年に大学を卒業しました。あとは、社会教育主事の勉強をするためにもう一回大学に入学しました。でも、結局、託児所はできなかったんです。
ただですね、その後カンボジアに移住したのですが、その頃主人が日本語を教えるように私に言いました。教えるのはわりと好きだったし、暇だったので趣味で始めました。当初、来た人のほとんどが現地の英語ガイド。将来的に日本からも観光客が来るのでは、と多分彼らは思ったんですね。そのうち、幼い子から小学生まで入学するようになりました。今は、下は7歳から上は40歳までいますよ。

最初は教師を目指したというより、趣味の一環から始めたのですね。

そうですね。時間もあるし教えられるので。現在シェムリアップの街には日本人が400人程いますが、教え始めたときは本当に少なかったので、教えられるのは私だけだと思ったんですね。そのうち日本人のお客さんが教室を見に来られるようになり教え方をどこで勉強したのか聞くので「独学です」と答えていました。しかし、それが恥ずかしく、一時帰国した時に日本語教師養成学校の通信講座に申し込み、二年間のところを三年間かけて修了しました。証明書をもらって日本語教育の先生になったよーって見せたら、クラスの生徒に今までなんだったのかと笑われました。
また、私は小さい時から本が好きだったのですけど、カンボジアでショックだったのが図書館も本屋もなかったこと。少しずつ本を持って行って図書館を作りました。「123図書館」です。本の整理に役に立つかなと思い、それで、大学で司書の勉強をしたんです。

学校の図書館にはどんな本を揃えていらっしゃいますか?

なんでもですよ。多種多様な図鑑や漫画。本屋が処分する本を置いて行ったり、旅行に来た方が置いて行かれたり。でも、図書館の蔵書はほとんどが日本語です。50冊ほど英語の書籍もありますよ。絵本、図鑑、漫画、写真集、観光ガイド、小説、教科書、紙芝居、実用書、児童書、画集など、いろいろな書籍があります。
わからなくてもいろんな本を読みなさいって言っています。本を読む習慣がないから、私の学校で初めて本に触る子もいます。そうして世界が広がって「今は毎日読むようにしています」というスピーチをして受賞した子もいます。自国にないことを知ることができます。

123図書館

スピーチで受賞した生徒たちと鬼さん

私はいつも生徒の目線でいたい

教師をする上で気を遣っていらっしゃることはありますか

いつも生徒に先生きれい!って言ってもらえるようにしています。服が乱れていたりとか、髪も乱れたりした状態では授業はしたくない。でも、みなさんどうですか? 例えば、勉強する際、先生がヨレヨレの服で疲れた感じで「おはよう」って来たらあんまり勉強したくないでしょ? やっぱりそういうのは大事だと思う。また、私が染髪しないのは、カンボジアの人にとって生まれて初めて会う日本人である可能性が高いから。ありのままの日本人の個性。そういうところに気をつけています。あとは、喋り方が偏ってしまうのが嫌なのでスタディツアーなどを受け入れて、関西、北海道、男性、年配、様々な日本語を話していただく。私の標準語しか分からないようになってしまわないように。

客観的に見られているんですね、ご自身を。

そうですね、偏った勉強をしたくないなって。私カンボジアに来てから10年間フランス語学校に通っていたんです。なぜかというと、話せるようになりたいのではなく生徒になりたかったのです。ずっと教師をしていると全部教師目線になってしまう。生徒になると勉強しなくちゃとか先生の教え方が分からないとかいろんなことが出てきますよね。私はいつも生徒の目線でいたい。

お互いの文化を大切にする

どんな教育も生徒に大きな影響を与えます。鬼さんの信仰やポリシーはありますか?

うちは神道なので神棚しかありませんが、私はお寺にも神社にも、どちらにも行く。日本の大和言葉、「言霊」をご存知ですか? 例えば上下の上を「かみ」と読むでしょう。それから神様の神「かみ」。だから、体の一番上「かみ」にある髪「かみ」は神様に通じるとして言い方が同じなのです。日本の言葉ってたくさんそういうのがあります。意味がとても深いのです。だから信条というより日本人として当たり前のことを勉強して伝えるようにしています。両国で仏教の考えも違います。その国の大切なものを否定せず私も大切にしています。
だから歴史教育はできるだけ客観的に教えています。両方の記録が残る、偏りがない本を読みなさい、一つだけを読んでそれを信じてはいけないよ、と言います。どうしてもインパクトがあるものや何度も出てくるものに洗脳されないように。
また、カンボジアには自分の誕生日を知らない人が多いんです。日本語って語学だけじゃないですからいろいろな文化も教えます。その中で、日本ではお誕生日を大事にしてパーティやるんだよって話をしたらそんな習慣はなかったのに、皆が私の誕生日に一生懸命言葉を練習してきて「先生お誕生日おめでとうございます!」って。今は教え子が結婚して子どもを育て、その子が勉強に来ているような感じですね。教え子が自分の子どもの誕生日のお祝いをする際に呼ばれることもあります。

端午の節句を祝う生徒たち

金儲けではない学校経営が真に人を繋ぐ

うちの学校は広告を出さずビジネスにもしません。お金はたくさんあると相手を潰すこともできます。よく会社とのタイアップビジネスをもちかけられますがお断りしています。人間ですから、お金がたくさんもらえる方に行ってしまうことが怖い。私は支援者の名前表記の仕方を金額で変えません。1000円と10万円ではずいぶん違いますが、私は同じように有り難く受け取る。クラウドファンディングも好きではないです。見返りの品と金額で分けることは支援者のレベルも変えることです。
その代わりうちには口伝えで来てもらっています。親戚や友達の交流の場となり、私が教え子の赤ちゃんの名付け親になることもありました。外国人なのに有難いです。
今、高野山大学で学ぶ教え子がいます。きっかけは、彼が小さい時に日本の大学生たちがスタディーツアーで学校を訪問し、一緒に遊んだことでした。言葉もわからないけれど丁寧で優しくて「ああ日本っていいな。いつか勉強に行きたいな」という気持ちがずっとあったそうです。すごいと思いませんか? 小さい時に日本人に出会い、大人になって留学する。別に日本で何かやってやろうというのではなく、純粋に日本語を勉強して日本人に会えることが嬉しいのです。
それから、私の学校は子どもたちが暮らすこともできます。別棟の宿舎ではなく、スタッフも教え子も私もこの学校の校舎内に住んでいます。男子は個室がありません。夜警の意味も兼ねて、夜は廊下や門の近くに折りたたみベッドを広げて蚊帳を吊って寝ています。女子は共同使用の着替え用の部屋がありますが、私の隣のベッドで寝ています。ちなみに、私は教室で寝ています。写真(以下)の中に蚊帳を吊ったベッドが見えると思います。それが私のベッドです。

実際の教室

この教室は、半分を個人レッスン用の教室として、残りの半分を私達の寝床に使っています。ドアも窓も無いんですよ。
生活は、コックがスタッフとして住み込んでいて、スタッフと住込みの子達と私の食事を毎日3食作っています。コックは一昨年結婚したので、今は旦那さんと赤ちゃんも一緒に住んでいます。学校にはボランティアさん用のドア、棚、扇風機、ベッドがある部屋が3つあります。そのうちの一つをコック一家の部屋にしています。住込みの子達は、3食しっかり食べ、公立学校に通い、希望する子は英語やパソコンの学校にも行っています。日本語や武道はもちろん全員私の学校で学んでいます。校内清掃や授業準備などのお手伝いをしながらの住込み生活です。
私がシェムリアップに住み始めた時は10名の大人が住み込んでいました。2名を除いて読み書きが出来ませんでした。それで、授業料どころか、普段の生活も困難な人をスタッフとして住み込ませていました。給料は払わず、その代わり家賃も取らず、という感じです。そのうち、生活が苦しくて学校に行かせてやれないので預かってほしいと言って子供を連れてくる人や、うちにいたら電気もなくて勉強ができないから住まわせてほしいという子供が出て来て、そのたびに受け入れて来ました。
私のところに数年住み込んだことがある子達のほとんどは、日本へ留学しています。日本語だけではなく、私と共に生活する中で日本の習慣などをしっかり身につけてからの訪日なので、そうではない留学生よりは日本に馴染みやすいようです。
そうやって通っていたある教え子が立命館アジア太平洋大学に留学し、今日本で働いています。その給料を甥っ子の学費に送ってくるのです。彼は、甥っ子が「柔道もやっていい?」と聞くと「授業が皆勤賞だったらやらせてやる!」と言いました。それで、甥っ子は一生懸命取り組んでいましたよ。

柔道に取り組む生徒たち

いつ何がどう役立つかわからない

学生の時にできることは全部やろうと思って。2年間で簿記、秘書、茶道や華道の免許を取り、アルバイトも何種類か経験しました。フォークダンス部の他に自然探求会を立ち上げて長芋掘りに行ったり、学生会長もやりました。それが何に役立つか考えていなかったけど日本語を教えていれば結構役立つんです。例えば、お茶やお花も教えられるし、日本語の会話の授業でおばあちゃんと若い人の会話でタンゴが出てきたらその踊りもやったり。いつ何がどう役立つかわからないけどいろんなことが役に立ちます。

学びは机の上だけに留まらず、生活の生きる全てなのだと体現されていますね

将来何が役に立つかなんかわからない。社会人になればなかなかできません。勉強も一生懸命やればいい、様々な場所に行き実験もやればいいし山に登ったり朝までずっと喋ったり、アルバイトを色々やるとか。せっかく学生なのですから、是非色々なことをしてください。

(インタビュー:2020年7月)

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