一番の敵は自分!

武蔵野美術大学

一番の敵は自分!

PEOPLEこの人に取材しました!

宇佐美慎吾さん

俳優、映画監督

大学卒業後アメリカへ渡り、3年間日本語教育に携わった後、オーストラリアへ移住。オーストラリアで永住権が取れたことをきっかけに俳優の道へ。2015年に公開された「RICEBALLS」は2016年のトロント国際映画祭や、その他国内外の映画祭に出品された。オーストラリアだけでなくアメリカのドラマや映画に出演するパワフルな男性。その行動力の根源にはどのようなところにあるのかを伺いました。

「RICEBALLS」(2015)
2015年に発表された短編映画。宇佐美さんが監督、脚本、役者を務めた。オーストラリアの妻を病気で亡くしたケンジと息子のジョシュの話。ジョシュと日本に移住するか否かを考えながら、ケンジはジョシュのために不器用な日本のおにぎりを作り続ける。そして彼らの愛が絆を強くし, 愛する人を失う痛みを乗り越える。2016年のトロント国際映画祭や、その他国内外の映画祭に出品され多くの評価を得た。

映画制作で印象深かったことは何でしたか?

そうですね、なぜ映画を作ったかというと仕事なり発表する場なりをただ待っているだけじゃ手にできないんだということを思い知ったからです。でもやっぱり、映画を作っていく上で、ただ演じているだけの仕事よりも大変で、準備も人を集めるのも大変だし、お金を集めるのも大変だし、ほんとにいろんな大変なことを身にしみて知りました。自分1人で作っているわけじゃないんだなっていうの、役者がいれば映画ができるわけじゃないんだなっていうのはつくづく思います。制作に携わっている人が自分の仕事を一生懸命完璧にやって、プロ意識を持ってやっているからちゃんとしたものができるんだっていうのを、思い知りましたね。何でもかんでも自分1人でやっちゃおうと思うんだけど、いろんな人の技術なり知識なりを借りて、やっていかないと作れないものなんだって思いました。

「RICEBALLS」撮影中

海外に移住して困ったことがあったら教えてください。

言葉が大変だったってのはあるよね。大学を出てすぐに日本語教師としてアメリカに行ったんですが、拙い英語なのに高校生のクラスをまとめなければならないところに入っちゃって、苦労しました。そこで1年教えた後で、アメリカの大学院に2年間通いました。あの英語力でよく大学院なんて入れてくれたなって思うんですけど、自分の言いたいことも言えないし。でも、そこでそれなりに勉強もしたから英語力がのびたのかなとは思います。その後オーストラリアで日本語関係の仕事をして、その間に役者の仕事に足を突っ込んで、興味が出てきて、2000年にこっちの永住権が取れたので、じゃあ仕事やめてやれって思って。今考えると大きな決断ですよね。英語の国で俳優やりますってどの面下げて言うんだよみたいな英語力でしたから。そうやって、その都度その都度やっぱり英語には困りますよね。オーディションに行くにしても、ネイティブが納得するようなオーストラリア英語で話せるかっていうと、もちろんそうではないし、壁はその都度その都度上がっていくんです。たとえばハリウッド映画に出れるのかというと、そういうキャラクターの役で出るのは別に難しくないんですよ。でも自分が行きたいレベルの役、取りたいような役を取るためには、英語のハードルというのはどんどん上がっていくので、そこはもう終わらない戦いです。

オーストラリアやアメリカといった地域で役者をするにあたって偏見や差別の経験はありますか?

ドラマ The Terror: Infamy  写真提供:Ed Araquel Photography

役者をしていく上であからさまな差別を受けるっていうのはないですけど、本当に白人以外の役ってないんですよ。「ダイバーシティ」って多様性という意味の言葉があるんですけど、今盛んに言われていることで、白人ばかりのドラマだったり映画だったりっていうのはおかしいんじゃないかって。何年か前にも、アカデミー賞にノミネートされている人が全員白人だったってことがあったんだけど。オーストラリアが差別主義者だからってことではなくて、そういう社会の流れからは遅れているんでしょうね。制作しているテレビや映画の数も少ないからどうしても同じ人ばかりになっちゃって、そういう多様性はアメリカとかに比べるとまだまだ遅れていると。オーディションにすら呼ばれないっていう意味では差別と言えば差別なんでしょうけどね。でも、壁はどんどん潰していかなきゃならない。そういう意味では、2019年8月から放送された日系アメリカ人を扱った「The Terror: Infamy」というドラマに出られたというのは僕にとって大きなことでもあるんです。

役が絞られる厳しい状況の中でやっていこうって思った決心やきっかけはありますか?

あんまり決心って覚えてない人なんですよね。でも、そういう中でもやっていかないと続けられないからね。まあ仕事がなかなかないってなるとへこみます。たとえばスーパーのコマーシャルを見てて本当のスーパーはいろんな人種の人が働いているのに店員が全員白人なのを見るとへこみます。そういうのが原動力になっているのかもしれないです。オーストラリア人としてメディアに出るには俺の英語は完璧なオーストラリア英語じゃないし、自分の限界を知るっていうことも原動力です。やっぱりステレオタイプって、別に日本人だけじゃなくても、どうしても付きまとってくるしね。だから仕事がないって言っているだけじゃダメなんだって思って、じゃあ自分で映画を作るしかないかなって作っていく。そうやって自分ができることを提示していく形がないと、ステレオタイプって崩れないし。そういうもどかしさを原動力にするっていうのはあります。

2019年8月にロサンゼルスで行われた The Terror: Infamy のプレミアの時

これまでの様々な経験が今の自分にとってどのような糧になっていると思いますか?

もちろん糧以外の何ものでもないですよね、どんな経験であれ。いい経験ばっかじゃないもん。恥ずかしい思いをしたこともあるし、でもまあ、それも糧です。何やったって糧になっていると思います。無駄に時間潰して、「けっ、なんだよ!」って思ったことも、糧だし。何で日本人にはこんな役しかないんだよって思ったからこそ、「RICEBALLS」という映画を作ることができたんだし。うまくいったことってあんまり糧になんないと思うんです。やっぱり人間として成長するだとか、自分からなんかを生み出すためのものっていうのは、今まで出会った人だとか、今までした苦労だとか、ネガティヴなことだとか、恥ずかしい経験だとかそういうのも含めて糧になっていくんだろうね。

どういうことをモチベーションにして、自分の目標まで持っていかれるのですか。

これをやろう!と思って、実際に行動に移したことなんてあまりないですよ。ほんとはもっとやりたいことがあるし、これもやんなきゃあれもやんなきゃって、思うこといっぱいあるんです。いろんな環境とかっていうのは言い訳でしかなくて、難しいのはわかってるけど、やればいいじゃんって自分で自分を押してやる。そういう状況に追い込んじゃったからもうやらなければしょうがない。結局は、自分で自分の背中を押すことだと思うんだよね。自分の背中を押して、成功したこともあるし、失敗したこともある。別に、成功しようが失敗しようが、とりあえずやったっていう達成感はある。とりあえずやっていたらいつの間にかここにいた。そういうもんじゃないかな。そういうことやっていたら、ありがたいことにこうやって行動力あると言ってくださる人もいらっしゃいますから。みんなそうだよ。うん。ほんとに自分でも思うけど、一番の敵は自分だもんね。敵って言ったら悪いけど、別に誰が止めてるわけでもないし、誰に迷惑かけるわけでもないのに、あーだこーだ、言い訳してやれなくしているのは自分だから。

2018年アメリカのコロラド州で行われた Crested Butte Film Festival で、映画上映後Q&Aセッションで観客からの質問に答えている

行き詰まってしまった時、脱却するためにどういうことを考えていますか。

うーん。脱却できてないからね。ほんとに日々行き詰まっていますから。どうやっているんだろうね。でもまあ、ずっとやっていっている上で、行き詰まった経験っていっぱい積み上がっていくじゃないですか。だから、「あ、またかよ」みたいなのがあるんですよね。で、あんだけ行き詰まったけど、まだ何とかやってんじゃんみたいな。あの時、もうほんとに落ち込んで落ち込んであれだけ行き詰まっていたけど、「でもなんとか、今まで続いてんじゃん」っていう。そういう振り返りが、ある意味自信にも繋がってくのかなと思うんだよ。行き詰まっている自分ってやっぱり、不甲斐ないし、なんでこんなことで悩んでんだろうとか思うことってみんな、あると思うんですよ。その行き詰まっている自分をいじめるようなことしたって何もいいことないから、行き詰まったけど、今までここまでやれてんじゃんってところを大事にした方がいんじゃないかな。

今後したいことや計画していることがありましたら、教えてください 。

去年の11月から新番組の撮影のために何度もニューヨークへ行って帰ってきてというのをやっています。足がかりができてアメリカのマネージャーも見つかったし、これからアメリカの方にも活動の場を広げていけたらなと思います。今後こんなことやってみたいっていうのはあったんだけども、本当にできるのかなみたいな、コロナで今オーストラリアから出られない状況なんですよ。でも、いろんな状況が少しずつ回復はしているから、仕事は出てくると思うし、こうやって海外に出られないのもチャンスといえばチャンスで、オーストラリアでまた映画を作るかとか、撮りたい短編映画もあるし、それをやろうかなと思ってます。

(インタビュー:2020年7月)

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