12年間のアメリカ暮らしで見つけた人生の目標

横浜国立大学

12年間のアメリカ暮らしで見つけた人生の目標

PEOPLEこの人に取材しました!

長谷川健治さん

横浜国立大学国際戦略推進機構 准教授

長谷川先生は、2003年から横浜国立大学で、留学生・日本人学生を対象とした英語によるクラスを主に担当し、交換留学のコーディネーターをしている。スタンフォード大学で歴史学の博士号を取得し、日本現代史の研究をされている。小中高校の、12年間という長い間、アメリカで生活してから、日本に戻った時、「自分も留学生」と感じたという。その経験や考えを、授業などを通して、留学生や留学希望の学生たちと分かち合いながら、サポートをしている長谷川先生に、お話をうかがった。

アメリカでの子供の頃

小学校一年生の時、父の仕事でアメリカへ引っ越しした。最初は当然言葉も全然わからないし、大変だったかもしれないが、僕はすごく助けてくれた友達に恵まれたと気づいた。その時、ニューヨークの家に住み出したら、すぐに近所の子供たちと遊べるようになって、学校もとても楽しかった。でも、土曜日に「日本人学校」というのがあって、日本人として日本語の勉強もしないといけないということで、バスに乗って、遠い学校へ勉強しに行った。僕はそれが大嫌いだった!アメリカだと土曜日にみんなが楽しく野球をやって、僕も野球が好きだったし、なんで僕だけが野球できないんだよ?!学校なんかに行かなくちゃいけないの?!という気持ちだった。たった2-3年のうちに僕は完全にアメリカの小学生になっていた。

歴史との出会い:日本とアメリカの認識の違いから

歴史との出会いといえば、母の家族という原点から始まった。母が広島出身だから、僕は広島の原爆の話は聞いていたりした。そして、高校までアメリカに住んでいたが、その間にも日本とアメリカを行ったり来たりしていた中から、日本とアメリカでは認識が違うと思った。そう思ったのは、米国大統領トルーマンの伝記(David McCullough, Truman)を読んだときだった。1992年に、この本が、出版され、ピューリッツアー賞を受賞した。僕は、まだ中学3年生だったが、背伸びしてこの分厚い本を読んだ。当時の僕のアイデンティティはどちらかというと「アメリカ人」だったので、この伝記の著者の思惑通り、トルーマンに感情移入する形で読んだ。しかし、原爆投下に関する部分では、家族の話を聴いていた僕は、少し違和感を覚えた。そこで、国の間で認識のギャップがあることを認識した。

歴史を専攻したいと気づいた一つの転機は、高校3年の時だったと思う。「アメリカ史」の授業で論文を完成しなければならなくて、アメリカの対日占領政策について書いた。気合を入れていっぱい本を読んで書いたので、この経験が一つの転機にはなった。さらに、その頃、一つアメリカでの事件が起こった。第二次世界大戦後50周年の1995年に、原爆展をめぐって問題になり、ワシントンでの展示が事実上キャンセルに追い込まれるということがあった。そのとき、原爆について書かれたものをいろいろ読んで、それが歴史との関わりの大きなきっかけとなった。

アメリカへ帰りたいという思い

博士課程に入る人たちはいろんな年齢の人がいて、学部を卒業してすぐ進学する、あるいは一旦ちょっと就職をしてもっと年齢が上になってから入るという人もいるが、僕は最初のケースで、その意味では少し若かった。それが悪かったとは思わないが、博士課程はそれまでの勉強の仕方とは違った。特に論文を作るときに。僕の論文のテーマは戦後日本(主に1950年代)における学生運動だった。「60年安保」は日本戦後史の中での大きな事件だったが、この事件の前史を、学生運動に焦点を当てて書いた。僕はもともと勉強が好きだからよかったと思ったが、そういう博士課程になると、自分のテーマを見つけて、自分で作っていくというのが非常に大事なので、そこはもう少し経験を積んでからやった方がより上手くできたのかなと思った。

スタンフォード大学HPより

 

のびのびと遊べる!vs 閉ざされた世界

留学といえば、日本人にとって、アメリカだけではなく、ヨーロッパ、イギリス、オセアニアという国々が圧倒的に人気だ。理由は日本人の欧米の生活に対する憧れというか、海外といえば欧米という偏見と思考が強いからだと思う。

僕の経験からいうと、日本と比べるとアメリカのほうが広いからのびのびと遊べるし、もっと自由な生活ができると感じた。小学校5年生に一旦日本に帰ったことがある。ものすごいカルチャーショックだった。なぜかはよく覚えていないけれど、そのとき僕も中学の受験をすることになってしまった。だから、塾に通い始めて、学校が終わってから眠いのに塾に行って、夜遅くまで勉強して、疲れたサラリーマンと一緒に電車に乗って帰った。アメリカでだとまだのびのびと遊べる年齢だったから、日本に帰ってそういう生活になって、ストレスがすごかった。

しかし、中学1年生でまたアメリカに戻って、もう少し年を重ねていくと、子供の時に感じていたいいことばっかりではなく、ある意味アメリカの閉ざされた世界が見えてきた。アメリカにも裕福な環境ばかりではなく、少し離れた場所に行くとがらっと雰囲気が変わって、本当に治安が悪くて、そういう「怖い場所」も存在する。そして時々差別の問題も発生することもある。

自分がなりたい大人

2003年の夏に、博士論文の調査で一旦日本に戻った。その時、たまたま横浜国大の「留学生センター」で教員の募集があった。まだ勉強が終わってない段階で、すごく早い時点だったけど、いいチャンスだと思って、そしてまだまだ勉強し続けたいので、横浜国大で働き始めた。大学教員は、教師と研究者の役割を両立させることが求められるので、両方に力をいれるよう努力している。

「この仕事をしたい!」と考える際には、最初にイメージしていたのはどちらかというと教師だとは思う。その理由は、高校時代に出会ったいい先生というのが大きなきっかけになった気がする。僕の高校時代の歴史の先生は、自分が勉強・経験してきたことをもとに、生徒と対話しながらできる限りのことを謙虚に伝えていた。しっかりして、優秀な先生で、授業も面白くて、尊敬できる人だった。この姿が、僕の中では「自分がなりたい大人」のイメージの原型となっていたと思う。さらに、大学院でも良い恩師に恵まれ、教育・研究の面で自分も努力を重ねて、その目標に近づきたいと思っている。

学生と留学生へ:鎮守の森みたいに生きよう!

横浜国大では、宮脇昭名誉教授が書いた「鎮守の森」という本に書かれているような森が、キャンパスに植えられている。鎮守の森というのは、日本の神社の周りにいろんな木を植えて作られた森のことだ。ここでは、密集した木々がバランスを取りながら、競争をしながら、生き生きと育っている。それと同じく、これから色々と変わっていく時代で、不安定な要素もいっぱいある中で、いろんな知恵や考えを持つ人を集めて、協力しながら、生きていくのは非常に大事なことだ。

留学生の場合は、初めて海外に行って、いきなり異文化に飛び込む留学生も大勢いるだろう。あらゆる面で不安があると思う。しかも、コロナで緊急事態宣言とかであまり外出できなくて、もっと不安に感じた留学生もいる。その中で、単にお客さんという存在として日本にいるのではなく、本当に日本社会の将来にかかせない存在として色々と体験し、認識し、日本社会で強く作用することのある同調圧力に飲まれないように、自分らしく生きて欲しいと伝えたい。

(インタビュー:2021年6月)

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