あきた舞妓を支える仕事 ~進化する花柳界~

秋田大学

あきた舞妓を支える仕事 ~進化する花柳界~

PEOPLEこの人に取材しました!

松岡叡美さん

株式会社せん

あきた舞妓の文化を守りたいとやる気いっぱいの松岡叡美さん。北秋田市阿仁出身。株式会社「せん」で、あきた舞妓に関する企画や営業の仕事をしながら、新しいことにチャレンジしようとがんばっている。「笑顔には点数をつける方法がない」と言って、秋田ローターアクトクラブ*の会長としても活躍しています。
松岡さんの子供時代、大学生活、仕事の良いところと難しさについてインタビューをしました。インタビューを通して、若い人たちが自信を持つために必要なことを考えました。

*18歳以上のメンバーがリーダーシップと専門的なスキルを育みながら、奉仕活動を行う。ロータリークラブがサポートし、世界各国にある。

人それぞれどんな風に生きても良い

私が生まれたところは北秋田市阿仁という場所でマタギ*やクマが有名です。私の父が子供のころは鉱山があったので、すごく栄えていて、大きな都会だったそうです。でも、今はお店も全然ないので、私はここを自然が豊かな町だと思っています。自然の中で走りながらのびのび元気に育ちました。ただし、友達や住んでいる人、お店も習いごとも少ない田舎で育ったので、視野も世界もすごく狭かったです。

*マタギ…東北地方の山間部に居住し、集団でクマ、シカなど大型動物の狩りをする人々

高校は大館鳳鳴高等学校です。部活は吹奏楽部で、毎日忙しかったです。朝6時に家を出て帰ってくるのは夜の10時でした。
私の小さい町から高校はちょっと遠い場所にあったので、私の町から鳳鳴高校に入った人はみんな下宿をしていました。高校の近くに住んで下宿先の「お母さん」にご飯やお弁当を作ってもらっていました。
でも、私は下宿ができませんでした。私の両親も高校生の時に下宿していたのですが、高校生のうちに家を出るのはあまり良くないと言って反対したからです。だから、毎日2時間かけて高校まで通っていました。ただ、私は今考えると反対されて良かったと思います。高校生は心がまだ子供です。学校でトラブルなどがあったり、勉強が難しかったり、友達と何かあったりしても、毎日家で家族に会えれば発散もできます。もし、親の反対を押し切って下宿をしていたら、そういった理由で、未熟な心を傷つけていたかもしれないと思います。だから反対してくれた両親には今は感謝しています。

高校生の時、国際教養大学(Akita International University、以下AIU)の秋田県の高校生をターゲットにしたキャンプみたいなものがありました。そこに参加して、高校生の時にAIUに行ってみたら、先生も学生もとても楽しそうに見えてAIUに入りたいと思いました。そのキャンプは入試に直結していて、キャンプに加えて、テストと小論文と面接で評価される入試方法でした。これらがうまくいって、ラッキーなことにAIUに入学できました。
AIUでは英語とそれ以外の言語を勉強しないといけないのですが、私はちょっと珍しい人で日本語を主に勉強しました。フランス語と韓国語も少し受講したけれど、日本語があまりにおもしろくて、最終的に日本語を選択しました。日本人は生まれた時から日本語を話せるけれど、日本語を間違えていることがあります。私は文章を正しく書いたり、外国人と会った時にわかりやすい日本語でシンプルに伝えられるようになったりしたかったからです。

大学に入ってから、世界や他の場所の基準でもものを考えるようになりました。そうすると、私の悩んでいたことはとても小さいことだったということがわかりました。色々なことを学んだので、これまで当たり前だと思っていたことが全然当たり前ではないことがわかって、すごくアクティブになりました。
私が大学に入った頃は本当に何をしたいかわからないという気持ちでした。だけど、AIUに入って色々な刺激をたくさんもらって、世界の色んなところに行って色んな人に会いました。そうしたら、将来の自分をイメージすることができ、色んなチョイスがあることに気づきました。

私はテストの英語は得意だったけど、話すことと聞くことが苦手で、私の英語は実際には使えない英語で、とても苦労しました。大学に合格した後から英語の勉強をし始めました。英語ができれば楽しいものが広がっていきます。アメリカ人やイギリス人だけじゃなくて色々な国の人と交流できたり、英語しかない映画などを楽しめたりして、何百倍も人生が楽しくなります。日本語しかできなかったら楽しめることが限られます。特に田舎にいるとチョイスがとても狭くて、20年間の人生の中で出会った大人の種類も少なかったです。様々な国で多くの大人に会い、色んなことをやっている人を見れば目標が見つかるとわかりました。
この思いから、どうしても英語がペラペラになりたかったので、アメリカのニューメキシコに留学しました。日本人に人気のない場所だから良いなと思ったんです。日本人がたくさんいたら絶対日本語を使ってしまうし、英語も上達しないから。
私がいた場所は砂漠で山があるところでした。日本で言えば富士山の途中ぐらい高い場所で酸素も薄くてドライでした。でも、すぐ体が慣れて強くなりました。
留学した時はイベントやインターナショナルフェスティバルに参加していました。そこでは日本のおにぎりを販売したり日本の漢字を書いて販売したりしていました。アメリカ人は漢字が好きなので、例えば、トムという名前のお客さんが来たら当て字で「富」と筆で紙に書いて販売し、漢字の意味を説明してあげて、お金を稼ぎました。

留学中に気づいたことは、アメリカ人と日本人の考え方の違いでした。例えば日本の伝統である着物は季節を表すために柄や素材を変えます。アメリカ人は冬にタンクトップの上にダウンジャケット着るなど、季節の雰囲気が感じられませんでした。
また、日本人には小さいころから「みんな同じにした方が良い」という考えがあります。例えば、外でおばあちゃんがピンクの服を着ている姿を見たら、日本人は「あのおばあちゃんヘン」って絶対に思うんです。でも、アメリカ人は「かわいい、おばあちゃん、良いね」と言います。勉強が他の人よりできるとかスポーツができると目立ってしまっていじめられて足並みを揃えるようなことが日本ではあります。でも、みんな違って良いんです。勉強やスポーツだけじゃなくて、笑顔がよくて人と話すのが得意とか、友達といつも元気に話すのが得意ということでもいいんです。良いところを見つけ、自信を伸ばしていくことは大事なことです。テストだったら100点をとるとか30点をとるとかで、良いと悪いがすぐ数字でわかります。スポーツも走るスピードの速さとかですぐに見えるようになります。笑顔は点数をつける方法ってないから本人たちも気づいてない人が多いと思います。「笑顔がきれいでかわいいよね」って言われても、本人はそのことに自覚や自信がないというような感じになることがよくあります。

あきた舞妓は一つの「アート」

大学在学中に三つのインターンをしました。一つは東京にある大きな会社で電子部品を作るメーカー会社でした。面白くて良かったですが、東京は人がたくさんいて電車もギュウギュウ詰めで、生活が合いませんでした。二つ目のインターンは秋田で行いました。秋田は人が少なくてすごく生活しやすくて楽しいなと思ったけれど、そこは最も一般的な日本らしい組織で個人の自由度が低いと感じてしまったんです。三つ目は今の株式会社「せん」でインターンをしました。川反(かわばた)花柳界という、一度は途絶えた文化を復活させるための会社ということを新聞で読んで、とても面白そうと思い、ホームページからメールを社長に送りました。そしたら社長が「AIU生が興味持っていてくれて嬉しい」と言ってくれて、実際に会うことができました。会社に入った時の印象は、あきた舞妓さんがとてもきれいで、社長もとてもアクティブな女性で、今度こういうイベントやってみようとか、別の会社とプランを作ってみようとか、秋田県と協力してみようとか、こういうものをしたらもっと秋田が面白くなるんじゃないかなとか、アイデアをいっぱい出していて、カッコイイなというものでした。秋田で生活しながら新しいビジョンを持った柔軟な人たちと仕事ができるので、将来私もここで働きたいなと思いました。
最初はあきた舞妓さんの運転をしたり簡単なパソコンの仕事をしたりしていました。今は企画や営業の仕事をしています。お客様のニーズに合わせてあきた舞妓劇場の新しいプランを考えたり、どうサービスを改良したらもっとお客様の満足度が上がるのかなどを話しあったりしています。それから、行政関係の方、他の会社の方などと協力して商品として一つ一つ考え、金額をつけ、販売計画をしたりもしています。
夜のお座敷などでは、会社の社長さんやお医者さん、弁護士さん、政治家さんなど少しリッチな人があきた舞妓を料亭に呼んでくれることもあります。遠い料亭にあきた舞妓が呼ばれた時は私が運転して連れて行くこともあります。あきた舞妓の人数が足りない時は、私も三味線と唄でお手伝いすることもあります。三味線と唄は普段から営業・企画のお仕事と並行してお稽古をしていて、二刀流を目指しています。

その一方で、劇場に来るお客さんはほとんど観光の人です。お子様連れの方やおじいちゃん、おばあちゃんもとても楽しんでくれます。
それから外国人も来ます。今はコロナで外国人は来ませんが、コロナ前は中国人、台湾人、韓国人が一番多かったと思います。それから、クルーズ船に乗って秋田ハーバーに来る観光客は、アメリカやヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドなど、世界中から来ていました。
ヨーロッパ人やアメリカ人はあきた舞妓のことを一つの「アート」だと思って見ているので、ヘアスタイルからメイクアップ、着物のドレスアップ、動き、ダンスも全部写真を撮って楽しんでいます。日本人やアジア人にもその感覚はもちろんあると思いますが、中にはアートというよりかわいい女の子としゃべっていて嬉しいという気持ちになる人も多いかもしれませんね。アジア人は真似してみたいなというところが少しあって、あきた舞妓の着物を着てトライしてみたいと言われたことも多かったです。

伝統と変化との葛藤

日本の文化ってとても複雑なので、新しいことにチャレンジしようとしてもタブーがたくさんあります。でも、本質をきちんと学んだ上で、ある程度の自由さや柔軟性も必要だと思うんです。例えば、舞妓になるには、たくさんの階段を上がらなければいけません。昔は中学校を卒業したらすぐに舞妓修行を始めることが一般的で、今もその伝統を続けている街もあります。昔の女性は大学や高校に進学する人は現代に比べたら珍しかったと思います。でも、今はみんな女性も大学などに行くことも珍しくない時代になった。だから、中学卒業後すぐ舞妓修行を始めなくてはいけないって、今の子にはあまり自然ではないように思うんです。

他にタブーというと、あきた舞妓は色々な人に踊りを教えてほしいと言わることもあるのですが、教えてはいけません。お免状を持つ限られた人達しか教えてはいけないんです。お免状を持つ人から教えてもらわないと間違うことがあるので、あきた舞妓同士であっても踊りを教えあったり、踊りの間違いを指摘しあったりしてはいけないんです。
タブーがたくさんあるのは、文化を次の世代までキープさせるためです。勝手に教えたり広めたりしてしまうと、古くから大切に守られてきたものがおかしな方向に変わってしまう可能性があるからです。だから、伝統文化の価値を守るためのルールは大事にしなくてはいけないと思います。私たちは全てのタブーに抵抗しようとしているわけではないですよ。タブーとされているものの本質を真剣に考えるようにしているんです。

川反花柳界の素晴らしい芸を次の世代につなげていくには、やっぱり若い子が興味を持ってくれたり、その素晴らしさを理解してもらったりしないといけない。みんなが「あきた舞妓さんっていいな」って思って応援したり、もしくは「あきた舞妓になってみたい」と思ってくれる若い人のハートをどんどんキャッチしていけないと、次の世代につながらないと思っています。そのためには、時代にあわせて変化を許容していく柔軟性も同時に必要だと思います。

私は新しいことにチャレンジする気持ちを大切にしたいと思っています。例えば、あきた舞妓になるための準備段階をもう少し細かくしてあげて、大学や高校に行きながら少しずつ成長していけるような仕組みを作りたいという話も皆でしています。このような意見をあきた舞妓に稽古をつけてくださる先生方や歴代のお姐さんに伝え、納得してもらうことが大事で大変な部分です。必ず関係者全員が納得できて幸せになれることしかやりたくありませんので、最良の形を作り上げるために意見の出し合いなどを繰り返しています。

それから、あきた舞妓たちにも自分の人生があります。当たり前のように主婦になりたいっていう子もいると思うんです。でも、全員が「明日から主婦になります」って言ったらこの会社はなくなるので、一人が子供を生んでも他のみんなできちんと回して、子供を産みきちんとママになって戻ってくることができる仕組みを作ってあげたいなと思っています。本来の花柳界の考え方を尊重すると「幸せに結婚してママになって戻るとはいかがなものか?」と考える人もいるかもしれません。でも、これから先の時代に後継者を育て、この芸能文化の素晴らしさを残していくには、働く女性が働きがいをもって幸せに働ける仕組みが絶対必要だと私は思うんです。

秋田は仕事がないから若い人が住みにくい、とよく言われます。仕事がないのではなくて、やりがいや自信を持って楽しく働ける仕事が少ないのかなと考えます。コロナの影響で、これまでのまま、進化に挑戦できなければどんな業界も生き残っていくのは難しいと思います。せっかくの機会ですし、どの業界も新時代に即して進化して、みんなが楽しく働けるように変わっていければとてもいいと思います。
一方で、コロナの影響で地方移住も流行っていますね。10年後の秋田は人が増えているかもしれませんね。今東京などで働いている人が、秋田に住みながら東京で働ける環境ができてくると仕事の心配は要りませんね。そんな時代になったら秋田にとってはラッキーなことだなと思います。
私の働く会社もまだまだ進化の途中なので、可能性をたくさん感じています。これからも精進して、もっと多くの女性が幸せに働ける組織に進化していきたいと思っています。

(インタビュー:2020年7月)