日本語教育の専門家だったからベトナム語の辞書が作れた 一橋大学教授・五味政信さん

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今回の「んじゃめな!」は、日本のベトナム語辞書としては5冊目となる『五味版 学習者用ベトナム語辞典』を刊行した一橋大学教授・五味政信さん。日本語教育の専門家である五味さんがなぜベトナム語辞書を? それはどんな辞書?

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◎ベトナム人の生活が浮かび上がる辞書
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実は私は大学でベトナム語を専攻していたのです。しかし、当時は留学生としてベトナムに渡るチャンスはほとんどなく、1979年ハノイ貿易大学の日本語教員として南北統一して間もないベトナムに渡りました。夏は気温40度、湿度100%のハノイですが、当時はエアコンもありません。朝起きるとまず、水道水を沸かして飲料水を作ることから一日が始まる生活でした。

日本語教育についてはほとんどしろうとの状態で、ベトナム人の若い日本語教師から「あなたのことが好きです」と「あなたが好きです」の違いを聞かれてぼう然となってしまったり、「〜的」はどんな単語につけられるのかと質問されて答えられなかったりと、行きたくてたまらなかったベトナムでしたが、仕事上では苦労の多い2年間でした(もちろん、楽しいことも喜びもたくさんたくさんありました)。今思うと、この2年間の苦労がその後の人生を支えてくれたことは間違いありません。

 帰国してからは東京外国語大学附属日本語学校で働き始め、その後東京工業大学、一橋大学とこれまで30年間日本語教育に携わってきました。その間に日本語を客観的に見る訓練を重ねて、「言葉を観察する視点」を一つずつ獲得していきました。その結果、ベトナム語も学生時代に比べたら、はるかに分析的に見ることができるようになり、18年前、ベトナム語学習者のための辞書を作りたいと思い始めました。

◎辞書作りの基本をはずれて
 まず考えたのは「学習者にとって必要な情報は何か」ということです。語の最小単位まで刈り込んで見出し語にするという辞書作りの基本は、あえて無視しました。語と語の呼応関係で語は生きてくるので、例えば、日本語の「〜だけでなく...も」を意味する "không những〜mà còn...'"が見出し語になっていたりもします。見出し語は8,000ですが、用例は21,000。すべてオリジナルの用例です。自分がベトナム語を学んだ経験、そして日本語教師としての経験から、一文で文意が伝わり、語の使い方がわかるような例文を作りたかったのです。また、日常的な会話例やコロケーション情報なども掲載しました。

 ベトナム語は長い歴史をもつ言語です。千年ほど中国に支配されていたことから漢語由来の語が数多く存在しますので、それらの語には漢字表記も入れました。さらに、動詞が表す体の動きや動作の対象物となった物の動きなどをイラストで示したり、現地の写真も掲載したり、さらに35のコラムでは私自身のベトナム語感、現地の事情をたくさん書き入れました。「読む辞書」を楽しみながら、ベトナム人の生活や姿が想像できるような辞書にしたかったのです。

 刊行までの17年間、休みはほとんどすべて辞書編纂に費やしましたが、苦しくも本当に楽しい日々でした。実は現在、2年後の増補改訂版刊行をめざして作業しています。今後もベトナム語の素晴らしさを辞書から伝えていきたいと思います。