時空を越え、この気持ちは変わらない!

横浜国立大学

時空を越え、この気持ちは変わらない!

PEOPLEこの人に取材しました!

タナカ・ラウ・アンドレア・ナミエさん

横浜国立大学大学院・日本語教育専攻

ナミエさんは、ペルーで生まれ育った日系人の女性です。彼女の家族は日系人であり、日本文化が生活の中に深く根付いていました。幼い頃から日本の影響を強く受けて育ったナミエさんにとって、日本はいつも特別な存在でした。彼女の心の中には、日本への強い思いと憧れがありました。
今回、彼女に言語や文化を越えて人々をつなげる努力と情熱についてインタビューさせていただきました。

子供の頃からの日本への興味

Q:ナミエさんの生まれた場所は日本ですか? それともペルーですか? 出身地はどこですか?

生まれた場所も育った場所もペルーです。家庭内では主にスペイン語で話しますが、日系家庭*なので親戚には日本人が多く、日本とペルーを行き来している家族もいるため、ペルーにいながらも日本の生活を間近に感じる機会が多くありました。

*日系家庭:日本からの移住者およびその子孫である方々は、各国で日系団体を設立し、日本文化の継承と普及に大きな役割を果たしてきました。

Q:つまり、スペイン語と日本語両方話しているんですね。

そうです、概ね自分の両親とスペイン語で話しました。祖父が日本人なんですけど、やっぱり、小さい頃から、日本の文化とか、日系家庭の特徴に馴染んでいます 。実は、歴史的な話になるのだけど、昔、 日本の人口が多くなってしまったころに、日本からほか国へいろんな人たちが移民したよね。(Q:そうです、中国も同じです。)それで、日本人が南米で最初に渡った国がペルーです。その後はブラジルにも広まったけど、今でも 、ペルーには日本人が集まったコミュニティは結構あります。日本にも戻らず、そのままペルーで生活した人達が、子どもを持って、次の世代と繋がって、今もペルーにいます、ハーフや、日系の子どもたち。今でも日系人向けの学校とかがあって、スペイン語の授業をやるけど、日本語も教えたりしています。あと日本の文化とか食とかがまだ受け継がれています。

Q:おそらく、小さい頃も日本人学校で勉強しましたね?

あ、父はペルーの首都リマ出身なんだけど、そこには日系人向けの学校があって、人気あったのでそこに通いました。でも、私が生まれたころには家族が他の町に引っ越ししていて私は普通の学校に通いました。小学生の時は、独学と、あとは母が家庭教師を呼んでくれて、日本語を外国語として勉強しました。日本語の塾で勉強が始まったのは中学生の時でした。日本語はもう本当に、子供の頃から触れる機会があったから、もともと馴染みはありました。馴染みはあって、日本語は好きでした。

ペルーにある日本料理レストランで

住んでいた街、リマの夕方

本当に日本語を学びたい

Q:日本語が好きだったんですね。その時、ご両親とか、おじいちゃんはナミエさんの将来も考えましたか?

あ、すでに考えていました。親はそういうつもりで、日本語を学んでほしかったです。なんか、将来日本に行く機会があるかもしれないとか。あとは日系の家庭だから、 次の世代へ日本の文化とか言語とか伝えていくっていう思いはある。それにプラスして、日本でいつか働くことになるかもしれないとか。 (笑)。

Q:あと、ペルーの大学に入って、その最初の学部1、2年生くらいで横浜国立大学のプログラムで、日本に交換留学したんですね?

大学のプログラムじゃなかったです。日本の文科省の国費留学のプログラムでした。 実は、本当は高校終わる前くらいに、日本留学の話は母 からありました。母が他の保護者さんたちと話したときに、他の日系家庭のお母さんが「私の子供は留学して、もう今日本にいるんだよ」という話を私の母にして、それで、母が、「じゃあ、私の子供も留学できるんじゃないかな」、と興味を持って、私に、「日本に留学とかのそういう奨学金とかもあるみたい。やってみたらどう? 」と提案してくれました。で、私も日本文化が大好きだったし、やっぱり日本の文化に触れながら、言語に触れながら育ってたから、興味はありました。それで、高校を卒業する前からチャレンジしました。でも、学士課程の奨学金の審査は厳しくて、特に試験がいっぱいあって 、すごく難しくて、1回チャレンジしたけど、試験に落ちて。それで、大学はペルーの大学にそのまま進学して、大学院で試すのもありかなと思い直しました。2年生の時に、「日本語研修生」っていう日本の文部科学省の国費留学の奨学金があったから、これはチャレンジしてみようと思ったんです。1年間の奨学金だったので、ペルーの大学は、休学して、1年日本留学して、またペルーに戻ることにしました。

Q:大学を急に休学することに対して、ご両親はどう考えましたか?

母は日本に留学できるなら賛成だったけど、父は反対でした 。、ペルーから日本に来て例えば工場で働いてる人がいっぱいいるじゃないですか。留学して日本の高等教育を受けなくて、私も工場で働くそういう選択をしてしまわないか心配したのです。父はそうやって日本に来たんですけど、でも、父の思いとしては娘にはちゃんと大学へ通って自分のキャリアを作って、他の国で働いてほしいって思ってたみたいです。だから私が休学するのは反対でした。もし日本に留学しちゃったら、ペルーの大学は本当に辞めちゃって、そのまま日本の工場で働くとか言い出さないのかなって。私はそんなつもりはなかったんですけど、父は心配していました。私は絶対に大学もちゃんと卒業したいから、日本留学して、ただ日本語と日本文化だけしっかり覚えて、またペルーに帰って、大学はちゃんと終わってから、また進路を考えようと思っていました。ペルーで働くか、また日本で働くか。日本が大好きだから留学するけど、ちゃんと戻るよということを父に伝えたかったです。母は何でも応援してくれるタイプだから(笑)母は「行きなさいよ、それが後のためになるかもしれない」と背中を推してくれました。

大学卒業式にて母と

日本語で世界と通じる

Q: 研修生として日本にいた期間で何か日本語の魅力を感じましたか?

私はもともとペルーでは専攻が経営でした。日本語の専攻ができるところがあったら、私は多分日本語を選んでたけど、ペルーではあまり日本語専攻がなかったから 、経営学部を選びました。国際ビジネスと経営、そういうダブルキャリアが私が通った大学にあったんですね。私はもう本当にとにかくどこかで日本とつながりがあるところを探してから、国際ビジネスを学ぶことにして、経営学部かなって思って、そのキャリアを選びました。けど、実際、その大学で勉強して、本当に経営、経営、経営ばっかりの内容で向いてなくて(笑)、国際ビジネスの方でも他の国の文化を学ぶ授業とかもあるけど、でもやっぱり私が学びたいことではありませんでした。だから、ちょっと不満がありました。でも仕方ありませんでした。とにかく学歴をつけないといけないと思って、勉強しました。1年間の留学が決まって、日本語を学んでたんですけど、日本語と文化に触れて、日本語の教室で 学んですごく楽しかったです。この教室(インタビューの場所:横浜国立大学の教室)、今も懐かしいです!6年経ったけど、本当に変わってないです。

 

研修生として生活を始めた横浜の夜景とともに

Q:日本で日本語を勉強することはペルーでの勉強と違いますね。

ペルーで日本語を学ぶのと、日本で日本語を学ぶのは全然違います。ペルーだと周りの学生はみんなペルー人だし、先生もそうだし、ペルーの日本語の塾に通ってた時も、先生が相手してるのはみんなペルー人の学生じゃないですか。当たり前ですけど多様性がなくて 、でもここに来ると留学生がいろんな国から来ているじゃないですか。日本人の先生はいろんな国の人を相手に日本語を教えていて、先生もいろんな国の話を聞くことができます。(Q:お互いに勉強できます。)そう、お互いに日本語の勉強を通して学び合う環境だなっていうのが気に入りました。もっと世界が広がるみたいな。 あとは、ずっと学んできた側だったから、教えるのもやっぱり興味が出たかなっていうのはあります。自分も教えられるんじゃないかな、日本語、どう勉強をしたら教えることができるのか、この大学の先生たちのように教えることができるんだろうっていうので、初めて日本語教育に興味を持ちました。それまでは、ただ私は日本語が好きで、将来日本語を使って、仕事ができればいいなって思っていました。自分が教える側として、日本語教育はそれまではあまり考えていませんでした。

Q:この1年間でもっと日本語を勉強したい、国際交流という気持ちがもっとあって、その後、一番興味のある、日本語教育に着目しましたか?

やっと、なんか、自分がやりたいことに近づいたなみたいな。ペルーではちょこちょこ道を作ってたけど、経営はなんか違うなって思ってました。自分の国だったら、日本語を活かせるところがあんまりないと思って、だからここでやっと私はこれがやりたいと思って、1年間の留学終わって、ペルーに帰る時はすごく悲しい気持ちだった。でもまずは大学を卒業しないといけないと思いました(笑)。私が本当に好きだったのは日本語で、日本語に関わるキャリアだと思うんですけど、ペルーで大学を卒業して、次に大学院に日本で進学したいと思った時、やっぱり自分のキャリアは今まで経営だったから、将来のこと考えてどっちが有利なんだろうかと迷いました。そのまま大学院を経営にするか日本語教育にするかすごく迷いました。

 

日本語授業の仲間

危ない! 人生で後悔する決断をしそうになった

Q:大学は経営学部で選びました。日本の大学院で日本語教育に変わりましたね。この間に何か苦労しましたか?

父には経営学を勉強したんだから経営の大学院に進みなさいと強く言われていました。母は変わらず応援してくれて、何でもいい、自分の好きなことであればという感じだったんですけど、やはり経営学はキャリア的に有利と言われることが多いし、評判も高いので 、本当に最後の最後まで経営学専攻大学院に進もうとしてました。文部科学省を通して国費留学生として最後のステップまで、進んで、合格して、ある大学で先生を見つけて、受け入れ内諾書をもらいました。大学院経営学専攻です。気持ち的にはどうしよう、どうしよう、本当にもう経営に進むのか、じゃあ、日本語教育を諦めることになるのか、というような感じで。最後まで、そのステップまで行っちゃったけど、最後の最後で、いや、やっぱり私、ずっと日本語が良かったから、決断しました(笑)。

Q:お父さんはどう思いましたか?

父にはもう反対されたまま(笑)。でも、ここからは自分の力で行く、学費とかももう父に出してもらわないし、奨学金で行くから、自分の好きなこと勉強したいってと、説得しました。母には応援されてたけど、でも、この奨学金を辞退したら、来年また受かるかどうかなんて分からないじゃないですか。もしかしたらもう日本に行くチャンスないかもしれないと思われて、だから、ちょっと危険なリスクをすごく負って辞退してるっていうのもあって、母は心配していました。そこで私は、今の指導教官の先生に連絡しました。前の1年間の留学の時にお世話になった先生です。その先生に改めて相談して、「私は今ある大学で経営学を受けようとしてるんですけど、本当は日本語教育に興味があって、私もともと経営学部だったから、日本語教育にキャリアを変更するのも可能性としてはどうなんでしょう」と相談をしました。先生はその時、「大丈夫ですよ。日本語教育にはいろんな学部から来ている学生がいる。みんな日本語を専門してた学生というわけじゃないですよ、だから歓迎します」とおっしゃってくださいました。「歓迎するので、あとは、大使館と変更できるかを考えて」と言っていただいて、それも勇気になり、決め手でした。日本語教育にするって決めて、経営学科への審査を辞退して、もう一度、その次の年にリベンジして、また幸い、最後のステップまで、面接まで行って、合格できたので、文部科学省から奨学金をもらって、日本語教育で横国に戻ってきました。

Q:一度合格した国費留学を諦めて、もう一度申請したんですね。

次年度の応募で、もう一度申請しました。本当にドキドキしました(笑)。たくさん学生が応募するし、研究計画も最初は経営で考えていたから、それを捨てて、今度は日本語教育に関する研究計画をまた改めて考えて、それで受かるかどうかも不安でした。文部科学省での試験が研究計画の検査と、あとは語学の審査もありました。英語と日本語のテストがあるんですけど、ほぼみんな日本語できないから英語の点数だけ気にして、英語で高い点数を取る。でも、日本語ができる人は日本語の試験でも点数が取れます。私は1年間の留学で結構日本語力が伸びたと思うんですよ。そのおかげで、日本語試験を受けた時も、高い点数 を取れたと思っています。やっぱり、留学の経験が日本語を伸ばすことをすごくつながったから、大使館での日本語テストは自分的には納得できるようないい結果が出せたと思います。日本語の力がテストにも役立ったので、よかったなと思います。

日本語の錬磨

Q:ペルーの大学を卒業した後、何をしていましたか?

1年間、私はペルーで、オンラインで日本のお客様対応の仕事をしていました。ペルーにいながら、日本の時間で働く仕事だったから、私はずっと夜勤。ペルーと日本は、時差があって、昼夜が真逆で、私は日本時間の朝9時から夕方の17時まで、日本の普通のお店の時間帯に働いていました。ペルーではこれは夜の7時から夜中の4時とか3時まで。1年間ずっとこの仕事をやって、すごく大変だったけど、私はやっぱりどうしても日本語を使いたかった。接客用の日本語ってあるじゃないですか。すごく丁寧な日本語が必要じゃないですか。それが本当に私はまだ身についていなかった。それまでは、私はアカデミックジャパニーズを話せた。でもビジネス向けのジャパニーズとかは、全然わからなくて、この仕事に入った時は、また新しく、日本語の勉強をしました。今度は敬語、お客様対応のビジネス日本語みたいな。
私は今のところ日本でもお仕事の経験を積みたいです。日本語教育の仕事もしたいですが、もし、教育関係でお仕事が見つからなければ最終的には一般企業に多分就職すると思うんですけど、どっち道、私はやっぱり日本で経験を積みたいです。これは両親も賛成しています。その中でどういう仕事があるのかがまだわからないから、それを探すのが今の課題です(笑)やっぱり、そう、教えるのも好きなんですけどね。

(インタビュー:2024年6月)

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