中東へ向かった人生
Q:高橋さんが中東に興味を持ったきっかけはなんだったのでしょうか?
ちょうど私が中学生のときに、インティファーダ*が起きて、パレスチナで同年代の子どもたちが石を投げて兵に抵抗している姿をテレビで見て、いつかこの人たちに会ってみたいと強く思いました。それが多分ずっと記憶の底に続いていて、進路を決めるタイミングで思い出していました。当時はカンボジア難民とかも多くいた頃で、それにも関心があったので、自分の中ではアジアに行くか、中東に行くかの二択でした。でも、最初アジアに行ってみて、そんなにしっくり来なかった。「もう一度行きたい!」っていうふうには思わなくて。それで3回目の海外でようやく中東に行って、「あ〜、これだ!」って感じたんです。
*1987年12月ごろから、パレスチナ人が自然発生的に投石などによってイスラエル占領地支配に対して一斉に蜂起した抵抗運動
Q:高橋さんは一度就職されていますね。それはどうしてですか?
私は新卒で就職はしませんでした。もう就活しないでエジプトに住んじゃうって決めていたんですね。大学2年の時にエジプトに3週間、短期の語学研修に行って、エジプトにどハマりしちゃって。そこからはエジプトで入る学校をずっと探して、ひたすらバイトをしていました。みんなが就活一生懸命している間も、私はバイトして旅して生活して、という生活でした。そして卒業後1年間、留学という形で、エジプトでアラビア語を勉強しました。その間にパレスチナも行きましたし、エジプトでも撮りたいテーマがいっぱいあったので、ずっと写真を撮っていました。
そこから一度帰ってきて就活しました。最初は、帰ってきてアルバイトしてお金貯めて、また向こうに戻ろうと思っていましたが、でもやっぱり親元でもない限り、アルバイトで生活しながらお金貯めるって無理なんです。それだったら就職して、何年か我慢してちゃんと働いて、もらえるものをもらった方がいいと思って、就活して、受かったところに入社して、5年我慢して、という感じで働きました。
Q:1回就職しても、やりたいことを見失わなかったのですね。
いや、そんなことないです。そのままどれだけ流されそうになったか。やっぱり楽なんで、毎月お給料が決まった額振り込まれるって。こんなにいいことはない。
でも今のままでいいんだろうかっていうストレスはすごくありました。何かで発散しないと人間壊れちゃうから、パンクライブで暴れまくったり(笑)。もうそれですごいお金使っているんですよ。なんか本当本末転倒だよなって、途中で気づかなくもなかったけど、なかなか抜け出すって大変で。
そんなときに2008年のガザへの、その当時としては十分ひどかった攻撃が起きて、はっとしました。何してんだ、私って。
それでもう会社辞めて、向こうに何のあてもなく行って、出会ったのがこのビリン村のママの家族でした。そう、だから何のあてもなく行ってみて、何が撮れるとか、何を取材したいとか全然そんなの頭になく、もうただ、出会う人たちに導かれるままにっていう感じでたまたま出会えた。ママの四男のハムディはカメラマンで、自分たちが暮らすビリン村で起きている抵抗運動をずっと記録していました。彼の生き方を知って、「この村だ」と思い、そこから再び通い始めるようになりました。
現実を切り取り、伝える
Q:高橋さんの作品には日常に焦点を当てた優しい作品が多いと感じます。そこは制作の上で意識されているのでしょうか?
悲惨な場面ってそんなに見たいものじゃないじゃないですか。どっちも現実なんですよね、悲惨な中でも日常生活が続いているのも本当だし、悲惨な部分も本当だし。でもやっぱりパレスチナって言われたときにみんなが思い浮かべるのって悲惨な部分だと思うんです。でも、あまりにも自分たちと違う場面ばかり見せられても、すごく遠くのことだとしか思えない。だとしたら、どうやったら身近に感じてもらえるんだろうと思ったときに、自分たちと変わらない日常があるということが大事だなと思ったんです。なので、あえてそういう場面を、と発表するときには特に心がけています。
撮るときはこの人たちとひたすら日常生活をともにしながら、そこで起きていることをいいことも悪いことも撮ってるんで、そんなには意識してないんですけどね。
Q:現実をどう切り取って表現していくかの判断はとても難しいと思います。発表されるときに注意していることや、考えていることはありますか?
そうですね、やっぱり撮らせてもらった相手が不利益をこうむらないことを一番気にしています。例えばママとかマハだって、最初から撮られて嬉しかったとか絶対ないと思うんです。「こいつはこれで何をするつもりなんだ」ってずっと思っていたと思う。でも、さっきもマハとビデオ通話が繋がって、写真展に来てくれた皆さんとワーってお話していたんですけど、そういうふうに、だんだんちょっとずつ話して、理解をしてもらって、それで不利益以上に「じゃあ協力するよ」って思ってもらえている。でも、それでも嫌だって思っていることは絶対あると思うので、そこは踏み越えないようにしています。自分が伝えたいって思っても、あまりにも相手に不利益になるようなことだったら公開しないっていうのは、やっぱり気をつけているつもりです。
Q:それはお互いの信頼関係があるからこそだと思うのですが、どうやってそこまでの関係を築いているのですか?
私もすべての家族とこんなふうになれたわけでは全く無いです。どれだけ長く一緒にいさせてもらっても、ずっとお客さんのままっていう家族もいっぱいあります。そういう家族の中に入り込んでもここまでの写真は撮れなかったと思う。やっぱり相性もあるし、相手がどれだけ受け入れようとしてくれているかもあるだろうし。たまたまですね、この二家族は。ママの家族とマハの家族。
葛藤、それでも「やりたいから」
Q:そのママとマハの一家との記録も書かれている『それでもパレスチナに木を植える』は特に素晴らしい本だと感じました。
私もその本が一番思い入れが強いです。一番苦しんだシーンがあるし、それを作ったとき、書いてる時が一番苦しかった。未だに、忘れられない。
その本にも書いている通りに、ハムザっていう青年が殺されたことはすごく大きかったです。彼は、マハの息子たちの幼なじみなんですけど、本当に冗談言って笑ってばっかりの、めちゃめちゃ愉快なやつで。そういう一面しか知らなかったのに、殺されるのを覚悟で武装抵抗組織の一員となって、殺されたということもショックだった。さらにその時に幼馴染であるカマールやジュジュが、「泣くな、喜んでやれ」って言ったのもショックだった。もう何だろうこの、ここの青年たちの絶望感って。ちょうど10年前、2014年ですね。
そこから希望を込めて家族の庭にオリーブの木を植えたりだとか、いろいろしましたが、でもやっぱりそんなに簡単に現実が変わるわけじゃなくって。さらに2023年に、アブーアリーも武装抵抗組織の一員として殺されました。サリーム(マハ家の四男)と一番仲が良かったんですけど、マハもすごくかわいがっていたし、私もとても仲が良かった人でした。木を植えたときに一番手伝ってくれたのもアブーアリーだったんですよ。
そういう時期だったから、苦しかった。もう今にもこのパレスチナの弟たちが殺されるかもしれないのに、この本を書いていて何の解決になるんだろうと思っていました。こんな木植えるとかも、何の解決になるんだよって。でもそう思いながらもやるしかなくて。今でもないわけではないですけど、そういう葛藤を抱き始めた時期がこの本の時期でした。
Q:社会問題を扱う上で湧き出る葛藤や難しさに対して、どう乗り越えようとしているのでしょうか、何か意識していることはありますか?
あんまり意識をしないようにすることが意識してることですかね。あんまり決めつけたりもしたくないし、「こうだ!」って思い込みたくもない。無理してやっても、いいことってあんまりないと思うんです。それは何か努力をしないとかそういう意味ではなく。だから不本意なことはできるだけ避けたい。何かをやるときも、自分がやりたいからやるんだ、と思うようにしています。というか、そう思えないことだったらやらない。じゃないと結局何かうまくいかなかったときに誰かのせいにしてしまったりするので。あえて言うなら、その辺は意識してることですかね。
Q:じゃあ写真を撮るのも、何か状況を変えたい、止めたいという想いの中でも、やりたいからやっているというのを大事に?
もちろん止めたい。止めたいけれど、それが目的ではないかな。その掲げられた大きな目標に向かって、自分はこういう手段をとるとかそういうことではない気がします。
私も昔は、もう死んじゃってもいいから名前を残せるぐらいのものを撮りたいって思っていました。でも、自分が何かを残すとか、人に評価されるとか、だんだんどうでもよくなってきちゃって。どっちかっていうと、今はマハたちが今日も笑っててくれる方が大事です。私もまだ未熟で葛藤があるんですけど、やっぱり撮れない場面ってあるんです、つらすぎて撮れないとか、悲しすぎて撮れないとか。そういうときに、多分何が何でも撮ってやるっていう姿勢だったら、賞を狙うとか、そういう意識に行くのかもしれないけど、私はどっちかっていうと、もうこの場でその場面を撮れなくてもいいからこの先もマハたちの信頼を失わずにいたいって思うようになった。
何様っていう感じですよね、写真のためにこの人たちがいるわけじゃないっていうか。
よっぽどすごい人は別ですけど、そんなに1人の人間にできる大したことなんてないと思うんです。でもそのことに絶望して、何もかもやめちゃうんじゃなくって、大したことないっていうのを頭に置きながら、その大したことのない何かをやっていくことが無意味だとは思わない。あんまり何かしなきゃって思いすぎてると、できなかった自分への絶望感ってすごいんですよ、いちいち打ちのめされちゃう。それで駄目になって辞めちゃうともったいないじゃないですか。せっかくやろうっていう気持ちもあるし、やってきたこともちょっとずつあるのに。だったらできるだけ打ちのめされないように、そんな大したことじゃないっていうふうに言い聞かせる。一種の自己防衛ですね。じゃないと続けられないから、同じような熱さで、ずっとは。
行動すること、忘れないこと
Q:パレスチナ問題を始め、社会問題について発言したり、行動したりするときに、絶対にちゃんとやらなきゃとか、この問題について発言するなら全部知らなきゃ、と思って何もできなくなる人は多い気がします。
もったいない、もったいない。そんなね、人間って完璧なわけじゃないから。少々間違ってたところで、誰かを傷つけてなければ、別にそんな大した問題じゃない。私も知らないこととか、間違ってることとかいっぱいあるけれど、でも、その程度だろう人間なんてって思っています。
この展示に来てくださった方の中にも、翻訳家の方で、一生懸命反戦パッチを作って配っていらっしゃる方がいたり、英語が得意で頑張って情報を翻訳をされている方がいたり、現地の映像に字幕をつけて、映像をせっせと上げていらっしゃっる方がいたり。そういうのってすごくいいと思うんですね。それぞれの人が、それぞれのアイディアでできることをやっていくって。
悩もうが、悩まずにポンとやっちゃおうが、どっちみち正解ってないと思います。本当の正解って、生きてる間に見つかるとはとても思えなくて。一つのものをどっちから見るかによって全然答えも評価も違うから。ここだけは譲れないっていう基準を決めとけば、もうあとはなんでもいいと思います。それが私の場合、現地の人たちが決定的な不利益、もう人生変わっちゃうぐらいの不利益を被るとか、そういうことはしないようにっていうこと。できてないこともいっぱいあると思いますけどね。いっぱい、現地に迷惑かけてると思いますけどね。きっと。
Q:実際に行ってみて、現地の人たちは私たちに何を望んでいると感じますか?
攻撃も止めてほしいし、占領も止めてほしい、イスラエルを止めてほしい、とは思っていると思います。間違いなく。ただもうちょっと切実で、忘れないでほしいっていうのはすごく言われます。切ないですよね。忘れないっていうことを求められて、本当に切ないです。
1回ガザの人に言われて衝撃だったのが、殺されるかもしれないし、攻撃されるかもしれないけど、でもそれによって世界の目が向けられてる今の方が、何も起きてない時期より、よっぽどマシだって言われたことです。もう10年前ですね。 みんな見ようと思えば見れるはずなのに、誰も見ない、封鎖に対しても誰も何も言わないから、結局ずっと苦しめられたままだって。何とも言えないです、考えさせられる、本当に。
Q:高橋さんはどのような思いや行動がパレスチナでの人々の共生に繋がってると思いますか?また、パレスチナにはどういう状況を望んでいらっしゃいますか?
私たちと日本にいる外国籍の人たちも同じだと思いますが、相手を同じ人間として見てなかったら絶対共生って無理だと思うんです。今のパレスチナの何が問題かっていうと、全員ではないけれど、イスラエル人の多くが、パレスチナ人を同じ人間と見なしてないことにある。だから共生が難しくなっている。日本でヘイトのスピーチが巻き起こるだとかも同じだと思うんですけど、相手を人間だって見ていたら言えないこととか、できないこととかも平気でやっちゃったり言っちゃったりするっていうのがとても問題だと感じます。そういうのを無くしていきたいですよね、日本だろうがイスラエルだろうがパレスチナだろうが。パレスチナにはどういう状況でも、人間が人間として普通に当たり前に生きられるような場所になることを、望んでいます。
(インタビュー:2024年6月)