りんご記念日応援団 宇佐美慎吾さん

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オーストラリア在住の日本人俳優の宇佐美慎吾さん。大学卒業時、画一化された就職活動を拒んで勢いで渡米。いきなり日本語を教えることになった宇佐美慎吾さんが、体当たりで生徒と関わり、無我夢中で生きて得たものは何だったのでしょう?

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▼勢いで海外に。体当たりの挑戦が成長させてくれた!
アメリカ・ウィスコンシン州の高校で、ボランティアのアシスタントとして日本語を教えるプログラムに参加したとき、僕は22歳だった。
僕はあのころ、自分はもう日本の社会には入れてもらえない人間になったのだと、半分本気で考えていた。

大学は卒業したが、ただの一度も就職活動というものをしなかった。大学4年の同じ時期に、周りが一斉に同じ髪型同じ服装になり、みんな同じことをし始めたのが妙に恐ろしかったのだ。陰りは見せていたとはいえバブル景気に沸いていた当時の日本は、全くの売り手市場だった。周りが三つも四つも内定を決めていく中で、俺は外国に行くんだから関係ないと無関心を装いながら、 自分は日本社会の「レール」から外れたのだ、もう今さら帰れないのだと悲壮な気持ちで日本を飛び出した。

英語もおぼつかない若造がいきなり生意気なティーンエイジャーの前で教壇に立ち、日本語を教えるなど無謀もいいとこだったと思う。何をどう教えていいのやら見当もつかず行き詰まり、失敗してはヘコみ、それでもなんとかやっていけたのは、日本では思いもよらないような新発見や出会いの連続で気分が高揚して、心の受け皿が大きくなっていたからだろう。落ち込みはしても、次々押し寄せるチャレンジのおかげで閉じこもっている余裕が無かった。

昼休みの職員室、同僚の先生たちのランチに加わり、ちんぷんかんぷんな彼らの会話を理解しようと1年間頑張ったこと。異文化理解を深める課外活動に入れてもらって、黒人の生徒に混じってゴスペルを歌ったこと。日本文化を教えるクラスが回を重ねてネタも尽き、「今日は君たちのスピリットを鍛える」とか何とか言いながらヤケクソで生徒に坐禅を組ませたこと。自慢にもならない、行き当たりばったりのそういう一歩一歩が、今の自分を支えてくれている。

アメリカに3年半住んだ後、それまで考えたことも無かったオーストラリアに縁あって移り住んだ。
日本語教師の仕事をしながら、子どものころから好きだった演技の世界にのめり込み、永住権が取れたのをきっかけに仕事を辞めた。英語の国で俳優になると宣言するその男は、すでに30歳を超えていた。無謀というか能天気というか、いわゆる「レール」からは完全に逸脱した選択をして、どうにかこうにか今年で15年になる。

「レール」って結局何だったんだろうと、考えることがある。計画性など全くない自分に時々呆れ果てながら、計画通りにいかなかったからこそ出会えた経験を、やっぱり愛おしく思ってしまうのだ。