りんご記念日応援団にしゃんたさん

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テレビでも活躍するスリランカ出身のにしゃんたさん。2009年、母国で26年にわたる内戦が終結。それまで敵対していた人たちと対話する機会を得て、にしゃんたさんが「人生に何を望んでいますか」と尋ねてみると、衝撃の答えが......。

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▼共に笑える世を創るために
私は17歳まで、自他共に認める多文化・多宗教・多言語国家のスリランカで生まれ育った。
メディアも言語ごとにチャンネルが存在する。私がまだ小さいときには、テレビ局は1つしかなく、放送時間も夕方5時から夜10時位までと短かったが、時間をずらして同じ内容をタミル語とシンハラ語と英語で流していた。

学校でも言語ごとに教室が分かれていて、隣の教室で違う言語で教育が行われていた。毎週月曜日の1時限目は全校集会で、教員は3つの言語で内容を説明してくれた。私はシンハラ語が母語だが、小さいときから当たり前のように隣語があった。

違う母語同士が互いに居心地の良い言葉を使って対話していた。でも今になって気づいたことがある。人口の多数派であるシンハラ人は「多数派ボケ」していたところがあって、他言語を勉強する努力が少なかった。隣語のタミル語が全くできない私も例外ではない。
ずっとタミル人の友だちがシンハラ語を喋って私に合わせてくれていたのだ。少数派のタミル人のなかには、3つの言語とも流暢な人が多かった。タミル人の友だちは優秀だったが、生きて行くにあたって多数派の言葉を覚えるしかなかったに違いない。

そんななか、スリランカで戦争が起きた。言語をめぐってのタミル対シンハラの戦いだった。多言語国家と思っていたが、単に言語をすみ分けしていただけだった。そこには多数派による少数者に対する同化があった。母国で学友がたくさん戦死するなか、7万円を握りしめ片道切符で日本にやってきた。

やさしい日本人がそんな私を、やさしい日本語のなかで育ててくれた。日本では人をけなす言葉が少なく、「平和」な言葉が多い。「平和」「思いやり」「おもてなし」「相手を察する」などを教えてもらった。

スリランカで戦争が終わったことを聞き、私はどうしても行きたい場所があった。少数派が多く住んでいて、戦争の中心地だった北部の都市ジャフナだ。願いが叶ったのは戦後数年経った2014年で、「アジアンタイムズ」(BSジャパン)のカメラも同行してくれた。
私は激しい戦争を生き残った多くのタミル人と話をした。なぜ同じスリランカ人同士が殺し合わないといけなかったのかを探った。

そんなときにタミル人の口から一つ言葉を聞いた。「サントーサム」だった。これはタミル語で「幸せ」という意味。「人生に何を望んでいますか?」と聞いたときの返答だった。私の母語シンハラ語で「幸せ」を表す言葉は「サントーサイ」という。タミル人の彼とシンハラ人の私、殺し合った同士が、同じものを追い求め、そのことばは同じような音をしていた。「サントーサム」は私が人生で出会った最も衝撃的な言葉だった。

隣語をめぐり26年間にわたる戦争を経験したスリランカの教育現場に新しい動きが生まれた。それまですみ分けされていたタミル語とシンハラ語を互いに授業科目として取り入れるようになったのだ。痛ましい経験に大いに学び、スリランカでやっと未来に向けて争いのない平和な国づくりの礎を築いている。

日本国内にも実はすでにたくさんの隣語がある。これからも増えていくに違いない。隣語があるのに、気づいてなかったり、排斥したり、すみ分けしたり、多数派に同化させたりしてはいないか。

隣語はただの隣語では意味がない。貪欲に各々が自分のなかに取り入れてこそ隣語。平和な心をもって共に笑える世を創るために使ってこそ隣語。これは私が将来的に骨を埋めて土となるこの日本に伝えたい、私が産み落とされた母国スリランカからの最も大事なことづけである。