駄菓子屋は子どもの社交場。山本義明さん

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今回のOh My Gochiは、ゴールドフィッシュデザインの山本義明さんのお話。年に1回発行しているTJFの事業報告書『CoReCa』をデザインしてくださっています。2015年につくった、12言語の「りんごカレンダー」も! そんな山本さんの思い出の味は...?

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駄菓子屋は子どもの社交場
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1970年代後半、下町で友だちと遊び回っていた小学生の頃、子どもたちの社交場は駄菓子屋だった。学校が終わるとランドセルを家の中に投げ出し「コラーッ!」と叱る母の声を後ろで聞きながら集まった駄菓子屋。キラキラ光ってるゼリーや冷凍すももに水風船、指でこすると煙が出る不思議な紙......少ない小遣いとにらめっこしながら今日は何を買おうかと毎日ワクワクした。
駄菓子屋は毎日大盛況。当時の小学校の児童数は今と比べるととても多かったが、違うクラスや学年でも駄菓子屋に集まればみんな顔見知りになった。

その中で特別だったのが「もんじゃ焼き」。当時の駄菓子屋には必ずというほど鉄板台を4人で囲むもんじゃ焼き台があった。どんぶり1杯100円。1日の小遣いが50円だった私にとっては贅沢な時間。それにラムネなんか追加した日はまさに豪遊だった。今となっては具のキャベツも少なく、小麦粉を薄く溶かしただし汁をこねくり回して鉄板で焼いて食べていただけだが、駄菓子屋のばあちゃんに学校であった出来事を話しながら皆でケラケラ笑って食べたもんじゃはとても美味しかった。

もんじゃ焼きは大人気で、店の前は子どもたちで大賑わい。時には順番待ちで上級生に割り込まれたりして嫌な気持ちも体験したが、子どもの世界でも知らず知らず協調性などを身に付けていたことも確かで、今では良い思い出だ。

だいぶ前になるが、大人になって暫くぶりに地元の駄菓子屋に顔を出すと、ばあちゃんはちゃんと顔と名前を覚えてくれていた。今はもうその駄菓子屋も無くなってしまったが、豊かな時間を過ごさせてくれたあの駄菓子屋の「もんじゃ焼き」が今でも愛おしい。