心を明るくしてくれた「サクラ色」。ナサニエルさん

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私はニュージーランドのタウランガという町で生まれました。オークランドから車で南に2時間半行ったところです。その後、いろいろな町に引っ越し、そのたびに転校しました。そして、11歳のとき9番目の小学校で日本語にであいました。といってもあまりいい思い出はなく、授業で勉強させられた日本語は私にとってはただ難しい言語でした。

その後、中学生のときにオーストラリアのダーウィンに移り住みました。通うことになった中学校では日本語、中国語、インドネシア語、ギリシャ語のなかからひとつを選ぶことになっていて、私は日本語を選びました。こうして再び日本語の授業をうけることになったのです。最初の授業で、自分が覚えていた日本語でできるあいさつをしました。

「こんにちは。ナサニエルです。ニュージーランドから来ました」
すると、みんなはびっくり。私を日本人じゃないかと言う友だちさえいました。それで、日本語に自信がもてるようになったのです。

そんなとき、授業で先生がアンジェラ・アキの「サクラ色」と「孤独のカケラ」を聞かせてくれました。特に「サクラ色」はピアノの音色がすごく美しくてすぐに好きになりました。繰り返し聴いて、単語を辞書で調べながら、自分で英語に翻訳しました。詞の意味がわかるともっと好きになりました。

◎学べば学ぶほど難しい
その頃、いちばん苦手な教科は英語で、いちばん得意なのが日本語でした。日本語はいつもA。アニメやマンガから入って日本語が好きになる人が多いのですが、私はそうではありません。日本語そのものが好きでした。語順が英語と違う。なぜだろう。そんなことを考えるのもおもしろかったのです。

高校に入ると、外国語を2つ選べたので、日本語と中国語をとりました。中国語は入り口が難しいのですが、そのあとは大丈夫。逆に日本語は入り口は易しいのですが、勉強すればするほど難しくなるんです。知れば知るほど、知らないことが増えていく感じさえしました。

◎口ずさんだアンジェラ・アキの歌
転校が多く、2年以上同じ学校にいることがなかった私は、いつの間にか、友だちをつくっても意味がないと思うようになっていきました。すぐに友だちはできるのですが、すぐにバイバイしなくてはいけないから、仲良くなっても仕方ない。そのうち、バイバイすることも悲しいと思わなくなりました。母と長い間、口をきかなくなったときもあります。そんなつらいときでも日本語を勉強することはとても楽しく、いい気分転換になりましたし、「サクラ色」を何度も口ずさみました。

大学で言語を専攻するか医学を専攻するか悩みましたが、中学生のときから憧れていた医者になろうと決めました。医学部の勉強は大変なのですが、日本語コースもとっています。日本語に現われる考え方が医者になったときにも役に立つと思います。例えば、「来い」ではなく、「こちらにいらっしゃってください」と言ったほうが丁寧で患者さんにとっていいと思うからです。そして何よりも日本語を勉強するのが楽しいのです。

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中学生時代

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高校時代

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現在