My Way Your Way

夢をあきらめない

vol.1

パラリンピックにかける思い

秋山里奈(26歳、東京都在住)

2013.11

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©安藤理智/スタディオアフタモード

秋山里奈さんは2004年にアテネパラリンピックの100m背泳ぎS11クラス*で銀メダルを獲得。2008年の北京大会ではS11クラスの100m背泳ぎの種目が廃止されたものの、2012年ロンドン大会では復活。秋山さんは念願の金メダルを獲得した。現在、一般企業で働く秋山さんが、パラリンピックにかけた思いを振り返った。

*視力や視界の程度によってS11~13にクラス分けされる。S11はほぼ完全に視力を失っているクラス。


パラリンピックのプレッシャー

ロンドンパラリンピックで100m背泳ぎの予選を終えたとき、最悪のコンディションでした。決勝進出はできたもののタイムを聞いてすごく泣きました。「こんなんじゃあ、メダルなんかとれないじゃないか。金メダル宣言までしたのに、金メダルどころか手ぶらで帰ることになってしまう。今までやってきたことすべてパーじゃないか」と思って、不安なのと、怖いのと、どうしたらいいのかわからないのとで、涙があふれたんです。泣ききった後はしばらく空気が抜けた風船のようでした。

ロンドンに入るまでは絶好調で、これは世界新で金メダルもいけるかも、なんて思っていたんですよ。それが選手村に入って、ライバルに会ったら、怖くて怖くて、夜もうなされて......。2ヵ月前の国内大会で世界新記録を出して、初めて追われる側として出たパラリンピックだったんですね。金メダル宣言をしたのも初めてでした。そうしたことがすごくプレッシャーになっていたんだと思います。あれだけ、金メダル以外はいらないと思っていたのに、何色でもいいからメダルがほしいと心から思いましたね。

予選が終わってから決勝までは約8時間。選手村に帰って、食事をして、体のメンテナンスを受けました。そのときにトレーナーさんが、「できることはすべてやったよ」って言ってくれたんです。そのことばを聞いて、「これが最後の舞台なんだ。自分が世界一になる道は、午後の決勝一本しかない。全力で泳ぎきって結果がついてこなかったらそれは仕方がない」って思えたんですね。すると、選手村を出て決勝に向かうときには、「よし行くぞっ!!」っていう気持ちになっていました。

力を出し切った決勝

決勝では最初のターン直前でコースロープにぶつかってしまいました。いつもなら、「あ~、やっちゃった」と思って、疲れが出て失速してしまうんですけど、今回は違いました。最後の50mはずっと頭のなかで「金メダル、金メダル、金メダル」と唱えていました(笑)。タッチした瞬間、放心状態でしたが、やれるだけのことはやったという気持ちでした。順位はすぐにわからなかったんですけど、聞きたいとも思わなくて......。ちょっと怖い気持ちもありました。1番だよ!って言われても、最初はわからなくて、聞きなおして、聞き間違いをしているかもしれないと思って、また聞きなおして......。そこで自然とガッツポーズになりました。

ずいぶん経ってから2位とのタイム差を聞きました。0.12秒。「危ね~っ!」って冷や汗が出ましたね。順位を知ったとき以上に、あ~、本当によかったと思いました。

©オフィス写真部 佑木瞬

ロンドンパラリンピック。声援に手を振る里奈さん。先導する人が手にしている棒は、ターンやゴールのタイミングを知らせるときに使う。
©安藤理智/スタディオアフタモード

それまでの道のり

初めてパラリンピックに出たのはロンドンの2つ前のアテネでした。16歳のときです。レースが終わって銀メダルがとれたことに最初は喜んでいたのですが、表彰台で金メダル選手の中国国歌を聞いたとき、ああ1位になりたい、金がほしいってすごく思ったんです。

それが次の北京では、競技人口が少ないことを理由に私の種目はなくなってしまいました。これを知ったとき、愕然としましたね。「なぜ?」ってことばしか浮かばなかった。でも、どうしてもパラリンピックで金メダルをとりたくて、自由形で出ようと決めました。苦手な種目でしたが、今までやっていなかった分、一生懸命練習すれば意外と伸びるんじゃないか、なんて思ってましたね(笑)。でもそんな甘いものじゃなかったです。何とかパラリンピックには出られることになりましたが、金メダルはあまりにも無理なので、目標を決勝進出に変えました。そして、決勝に進むことができました。結果は8人中8位。でもすごくうれしかったですね。アテネの銀メダル以上にうれしかったんです。コーチを信頼して、二人三脚でがんばってきましたから。コーチが泣きじゃくっていたって聞いて、私といっしょに、いえ私以上に頑張ってくれたからこそ喜んでくれていたんだと思って、私もじーんときました。

悔しさのない表彰台に立ちたい

北京大会後、国内大会と世界大会で世界新記録を出しました。でも国内のときは、世界大会ではないのであまり実感がもてなかったんですね。世界大会のときは世界新でしたが2位でした。なぜ2位だったか。原因は後半の失速です。パワーがなくなってしまうんです。だから、最後まで体力を温存できる省エネ泳法に切り替えてみました。練習ではちゃんといいタイムが出るのに、本番では出ない。それが約2年続きました。トンネルの中をずっと歩いていて先が見えない感じでした。結局メンタルが弱かったんですね。いいタイムが出なかったらどうしようって考えている時点で萎縮していてだめですよね。

もうこの大会で引退しようと思って、いつも大会に出ていました。でも、いいタイムが出なくて......。次の大会で出るかも、と思ってまた出場するという繰り返しでした。それでそろそろ引退を考えていた頃に、私の種目がロンドンで復活することになったんです。正直、複雑でしたね。引退する理由がなくなっちゃったじゃないかと。

ライバルたちに勝ってこそ、真の世界一になれる。だったらやっぱりパラリンピックに出るしかない。悔しさのない表彰式に出たかったんです。いくら頑張っても結果がついてこないとだめんなんですよね。人は許してくれても自分が許せないんです。

ロンドンの前はすべてにおいて水泳をいちばんに考えました。そうしない限り1番にはなれないだろうと思いました。練習もこれ以上できないぐらいやりました。オフは日曜日だけで、あとは毎日、1時間半~2時間を朝と日中、それから筋トレ。1年間は、毎日腕立て・腹筋・背筋を500回ずつやりました。

私はもともと負けん気がものすごく強いんですよ。これだけハードルを上げないほうが生きるのに楽なのにって思うんですけど、ハードルを下げてしまうと、その低いハードルさえ越えられなくなって、どんどんどんどん、これでいいやっててなってしまうんじゃないかって思うし、そうなるとモチベーションが上がらないんですね。だからめざすんだったら最高峰なんです。

©オフィス写真部 佑木瞬

明治大学キャンパス内の点字ブロック。視覚に障がいのある人は白杖で、点字ブロックの凹凸を確認して歩く。凹凸の種類によって、進んでいいのか、止まらなくてはいけないのかがわかる。

©オフィス写真部 佑木瞬

水泳との出会い

姉がスイミングに通っていたので、私も3歳のときから通うようになりました。私はすごくおてんばだったので、水の中だと安心というのが親にはあったようです。小さい頃は、目の見える人と競争しても勝っていたのですが、小学校の高学年にもなるとそうはいかなくなってきました。手のかき方、足の動かし方、何一つとっても、見えないからイメージがつかめないんです。 そんなときに、担任の先生が1冊の本を夏休みの感想文の課題図書として紹介してくれました。河合純一さんの『夢をつなぐ』です。河合さんは私と同じ全盲で、パラリンピックのメダリスト。この本でパラリンピックの存在を初めて知って、パラリンピックに出ることが目標になりました。

世界を広げる

中学校に入ると家から離れて寮生活を始めました。小学校のときに通っていた近くの盲学校では、私の学年は私を入れて2人だけ。とにかくたくさん友だちをつくりたくて、全国から集まってくる筑波大学附属盲学校に入りました。とはいっても、中学校では学年に8人、高校では17人だったんですけど......。

小学生の頃から英語の先生になりたいと思っていたので、当然大学に進学するつもりでした。それまで盲学校というある種、特殊な世界で、視覚障がい者だけの価値観で成長するのはよくないし、どうせ社会に出るんだったら、大学から慣れておいたほういいとも思っていたんですね。

予備校に通っていたときに、憲法の先生の授業がとてもおもしろくて、結局英語の道ではなく、明治大学法学部に進みました。

大学にはいろいろな人がいました。留学生はもちろん50代の人もいて、やる気さえあればいつでもできるんだなって思いましたね。ひとつの目標を達成するのにもいろいろなアプローチがあるんだと、それは私の水泳にもリンクしたところはあります。

©オフィス写真部 佑木瞬

©オフィス写真部 佑木瞬

パラリンピックのことをもっと知ってほしい

日本ではパラリンピックは認知度も評価もまだまだ低いです。競技というよりも障がい者ががんばってやっているというイメージをもっている人が多いんですね。

アスリートとしては見てもらえないことはまず大学受験のときに実感しました。パラリンピックで銀メダルをとっていることが有利になるだろうと思っていたのに、全く考慮されなかったんです。すごくショックでした。一生懸命やってきた水泳がこれだけの評価しか受けないのかと思って......。オリンピックだったらどうだろうと思いましたね。でも、それを言っていても仕方がないから、実力で入ってやると思って、一浪しました。その間は水泳もやらないでとにかく勉強に打ち込みました。

それから次は就職活動のとき。「うちはオリンピックじゃないととらないよ」とはっきり言った企業もありました。でも、その一社だけじゃなくて、社会全体の問題です。

それから、障がい者もパラリンピックのことを知らなかったりするんです。パラリンピックではなくて、オリンピックに出たいなら、それはそれでいいと思うんです。実際にそういう選手はいますし......。でも、知らないことで選択肢がなくなるのはいけないですよね。

オリンピックはテレビでたくさん放送されますが、パラリンピックはほとんどありません。ニュースですらあまり取り上げてもらえない。だから、もっともっとたくさん報道してもらって、広く知ってもらえるといいと思いますね。

ロンドンオリンピックでは観客の皆さんが本当にすばらしくて、どんな競技でもいっぱい入っていて、他国の選手でも拍手、応援がすごかったんです。日本では一番大きな国内大会でも全然応援してくれる人がいなくて、全然歓声もなくて静かな大会です。まだまだスポーツとしてとらえられてない証拠なんだろうなあと思いますよね。2020年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されますが、この7年の間にどこまでロンドンで感じたようなパラリンピックの受け止められ方に近づけるかが楽しみです。

©オフィス写真部 佑木瞬

新しい発見

今は外資系の企業で働いています。ずっとしたいと思っていた一人暮らしも始めました。包丁は小学生のときから使っていますし、中高校では調理実習もしたことがあるので、料理はできるんです。でも、自分のレパートリーのなさにあきれています(笑)。

一人暮らしでいちばん大変なのは書類を書くときです。読むのはパソコンのリーダーでよませちゃえばいいんですが、書くのだけは職場の人とかに手伝ってもらってやっています。

会社に入って、いろいろな人がいて、いろいろな仕事があって、私もその一部を担っています。それまでは自分が前に出て行きたいと思っていたんですが、縁の下の力持ちのような仕事もいいなあって思っています。誰かの力になる仕事をするのは、地味だけどすばらしいことだと思います。これは仕事を始めてからのいちばんの発見ですね。

今のところ仕事は順調ですが、これから挫折しそうになったとき、金メダルまでの8年間で得た力、諦めない粘りづよさを発揮できるんじゃないかと思います。

インタビュー 2013年9月


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